風土と人が織り成す物語
ジム・ケリー『水時計』
ドロシー・L・セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』
本を読んでいるとき、なぜか、景色に見覚えがあるような気がすることがある。行ったことがないのに、どこかで見たような錯覚を起こすのだ。ジム・ケリーの『水時計』を読んでいるとき、何度もこのような感覚を覚えた。この景色は確かにどこかで見ているはず、と。
答えは聖堂にあった。英国東部の沼沢地(フェンズ)にそびえる大聖堂。そう、わたしが思い浮かべていた景色は、ドロシー・L・セイヤーズの名作『ナイン・テイラーズ』に描かれたフェンチャーチ・セント・ポールの教区教会だった。(訳者の浅羽さんは、フェンチャーチ・セント・ポールのモデルはイーリーの大聖堂ではないかと考えておられたらしい)
ジム・ケリーのデビュー作『水時計』は、大聖堂のそびえる小都市、イーリーを舞台としている。川底に沈んだ乗用車のなかから男性の死体が発見され、その翌日、修復工事中の大聖堂の雨樋から白骨化した死体が表れる。地元の週刊新聞の記者フィリップ・ドライデンは、この二つの死体に関連があるのではないかと考え、被害者たちの過去に迫っていく。
イーリーで育ったドライデンには、水にまつわる深いトラウマがあった。子どものころ、ドライデンは薄氷の張った川でスケートをして溺れた経験があった。そして、ドライデンの妻ローラは、交通事故の後遺症で昏睡状態にあった。イーリーにあるドライデンの母の農場を訪れた帰途、夫婦の乗った車が無謀な運転をした対向車にはねとばされて排水路に落ち、ドライデンは救出されたが、ローラは車内に取り残され、心身に深い傷を負ったのだ。水のイメージは繰り返しドライデンの記憶のなかに表れ、ドライデンを苛み続ける。
『ナイン・テイラーズ』でも、水の強大な力が描かれている。沼沢地は常に水の脅威にさらされている。水との戦いに、人は勝つことはできない。ただ、水をなだめ、水と共存していくしか生きていく道はない。水は人の心のなかで流れ続けていく。
杉江松恋氏による解説に、ジム・ケリーは『ナイン・テイラーズ』を自身が小説を書く指針としたとある。『ナイン・テイラーズ』は風土と人が織り成すミステリの原型といえよう。そして、『水時計』はその流れを忠実に受け継いでいる。地味ではあるが、2009年の注目すべき1冊である。
久しぶりに『ナイン・テイラーズ』を読んだ。沼沢地に響く鐘の音が聞こえるような気がする。大聖堂に思いをはせながら、来る年の幸いを祈りたい。
『水時計』ジム・ケリー 玉木亨訳 創元推理文庫
『ナイン・テイラーズ』 ドロシー・L・セイヤーズ 浅羽莢子訳 創元推理文庫
(2009年12月)