いま本屋にある「ミステリマガジン」2月号は特集「ハードボイルド宣言」ということで、短編小説が7篇掲載されており、その他に木村仁良(二郎)さんのエッセイ「ハードボイルドって本当は何なの?」がある。
わたしは長いこと木村さんのファンである。訳された私立探偵小説の歯切れよい訳文もいいけど、解説がていねいで、ほんとうに好きな作家を訳して、その解説を書くのがうれしそうなところが好きなのだ。6年前、サラ・パレツキーさんが来日されたとき、講演会場のロビーで紹介してもらってお近づきになれたときは嬉しかった。
ということで、最近買うのをサボリ気味な「ミステリマガジン」を買ってきた。木村さんのエッセイを読んでいて、いままで木村さんは感情で文章を書く人ではないと思っていたのだが、今回は「ハードボイルド」という言葉について実証的に書いているんだけど、感情を隠していないのに気がついた。と言ってもとてもシャイになんだけど。
このエッセイでは、日本で読者や評論家が使っている「ハードボイルド」という言葉の使い方が間違いであることを書いている。わたしも「ネオ・ハードボイルド」とマイケル・コリンズなんかを書くときに分類するのに安易に使っていた。わたしなんぞは反省ですむけれど、どうもそれだけではすまない気配が文面からただよう。それだけ、日本のミステリ界のえらい人が「ハードボイルドという言葉を誤解してカッコをつけてきたのだと想像できる。
それとは別に、木村さんの長期連載「サイバーガムシュー」ではスー・グラフトンのインタビュー記事が紹介されている。女性ミステリについて納得のいく評論の紹介もある。「ミステリマガジン」2月号を買って読んでください。
クリスマス前に広告を見てこれは買わなくちゃと思っていたが、本屋へ行く時間がなくて、昨日ようやく手に入れた。うれしくてしかたがない。ただ、「六日のあやめ、十日の菊」を通り越して29日に手にしたのがちょっと・・・だけど。
表紙がとてもきれいで、見開きのえんじ色がおとなっぽくて、ちょっとおませな子にあげたら喜ぶだろうと思う。もちろん、大人だって喜ぶでしょう。
物語は三つの話が並行して進む。人形のホリーと孤児のアイビー、そしてジョーンズ夫妻である。ホリーはおもちゃ屋の棚に並んで売れるのを待っている。アイビーは孤児院からクリスマスを迎えるために、田舎にある「幼子の家」に行かされることになる。アイビーは想像のおばあちゃんの家を探して、乗せられた列車の途中の駅で降りてしまう。アイビーが降りた小さな街にはジョーンズ夫婦がいて、二人きりのクリスマスを迎えるのを淋しく思っている。この街のおもちゃ屋にクリスマス人形のホリーがいた。それからがアイビーとホリーとジョーンズさん夫婦が出会う物語になる。「これは、ねがいごとのお話です」と作者のルーマー・ゴッテンは言っている。
ルーマー・ゴッテン(1907〜1998)は「すももの夏」や「人形の家」等の子ども向きの本、映画化された「黒水仙」を書いた人である。1958年に書かれた作品にバーバラ・クーニー(1917〜2001)が1985年に挿絵をつけた。バーバラ・クーニーの絵は申し分なく美しい。(岩波書店 2000円+税)
我が家に住み着いたモンシロチョウはまだ元気です。呼びかけるのにチョウチョウちゃんではややこしいので、シロちゃんと名前をつけました。今月の12日にトネリコの鉢植えから飛び立ったシロちゃんは、外の鉢植えに移したのに、違う鉢植えに住み替えして、知らぬ間にまた部屋にもどっていました。
窓に止まっているのを見つけて、砂糖水をティッシュペーパーにしませたのを、最初はチューチュー吸い上げていましたが、それからあとは知らぬ顔、でもこちらが見ていないときに吸っているに違いないと思っています。だから毎日新しい砂糖水と交換しています。寒かったらここにお入りという感じで小さい布を丸めて置いてやりました。これは利用していないようですが、その側まで来ていることはあります。
西側の窓に居場所を決めて、陽が当たると窓の上の方をあちこちし、夜になると下に降りてきて窓の枠なんかに止まってじっとしています。死んだのかと気になっていると、じっとしている場所がすこし変わっていたり、体の向きが変わっていたりします。
先日は「死んでるんとちゃう?」と言うと、羽根をちらっと動かせて見せました。なかなかのヤツです。毎日何回も「シロちゃんどうしてるの?」と気にしています。
わりと最近のことだけど、テレビをつけたときに、ちょうど沖縄の人がなんで長寿かという番組をやっていて、おいしそうな野菜炒めが写っているところだった。緑色の野菜と炒めているのは、三枚肉の塊を茹でて細切りしたものだという。
三枚肉(バラ肉)は肋骨のところの肉だと辞書にでていた。ベーコンはこの肉を加工したものよね。月に一度はベーコンブロックを買っている。かりかりのベーコンエッグがお気に入り。
その沖縄料理の番組を見て、なるほどと思い三枚肉の塊を買ってきた。30分ほど茹でてからさまして冷蔵庫に入れておけば、いろいろと役に立つ。細く切ってチンゲンサイと炒めたらおいしかった。ころころに切ってアイリッシュシチューにしたら抜群の味である。昨日書いたけどお雑煮にも使ってみたら、いける! 白菜といっしょに炊いてみたら、これもけっこうおいしかった。
心斎橋まで買い物に行った帰り、丸善から御堂筋へ出てアランジ・アロンゾに行こうとしたら、御堂筋の歩道に人だかりがしているのが見えた。なんだろうと思って近づいたら、徳島県事務所の前に朝市のしつらえがしてあって、農産物なんかを売っている。よく売れているのは、きっとときどきやっていて、おいしいという評判があるからだろう。
お餅、お茶、ずいき、割干し大根、アズキ、スダチ、柚子、漬け物、などがあって、5,500円も買っている人がいるのにはおどろいた。せっかく見たのだからなにか買おうと思ったが、荷物が重くなってはいけない。大きい切り餅6個入り(白が4個、ヨモギが2個)500円というのを買ってみた。
晩ご飯にお雑煮をつくった。豚肉の三枚肉の塊を茹でて保存してあるのを切って入れ、その他には小松菜を入れただけの簡素なお雑煮。お餅がすっごくおいしかった。これならもっと買えばよかった。
ヨモギ餅のほうはアズキを炊いてぜんざいにした。これも上々の味であった。アズキはたくさん炊いておいて塩味だけつけておく。これを保存しておいて、朝ご飯のとき小皿で出す。塩味のアズキもうまいものです。おやつには砂糖を入れてお餅を入れてぜんざいにする。
フェデリコ・フェリーニの映画は全部好きというわけでなく、好きなのは「8 1/2」「甘い生活」「フェリーニのローマ」「アマルコルド」「そして舟は行く」くらいだろうか。たいてい映画館で見て、レーザーデスクを買って何度でも見ている。一方、こんなことを書くと映画好きの人たちに白い目で見られそうだが、ジュリエッタ・マシーナがかなわんのである。
「魂のジュリエッタ」は1964年(「8 1/2」が1963年)に制作された、フェリーニ最初のカラー長編である。そのせいで色彩にアタマがいってしまったのか、「8
1/2」の完成度にはかなり遠いとわたしは思う。
初恋の人と結婚して裕福な家庭の主婦であるジュリエッタが、結婚15周年を2人きりで祝おうと支度をしたのに、夫は友人たちを引き連れて帰ってくる。ベッドで夫は寝言に女の名を呼ぶ。それからジュリエッタの苦悩がはじまる。祈とう師、私立探偵、精神分析、それに隣家の放埒な女性とのつきあい、などが色彩豊かに描かれる。フェリーニ好みの豊満な女性たちもたくさん登場する。でも、そういう映像とわけ知り顔のジュリエッタがかみ合わない。
さて、気分を変えなきゃ。「フェリーニのローマ」のオートバイ疾走シーンを見るか、「甘い生活」のアニタ・エクバーグが大きな口を開けて笑うところを見るか…。「8
1/2」の最後のところ、めちゃくちゃ好き。
クリスマスも正月もカンケイないと言いながら過ごしているけれど、クリスマスの街のにぎわいや初詣の人混みが好きなので出かけることが多かった。さっき、あるサイトで知り合ったメール友だちから、イルミネーションの街が好きで出かけてしまうとメールをいただいた。おなんじような人がいるもんだと笑ってしまった。
でも、今年のわたしはそういうわけにはいかない。今年の春からまた足の調子が悪くなって去年の暮れよりも歩きにくくなっている。だから、人混みをあてどなく歩くという贅沢はできない。目的地に向かって歩きながら周りを見渡す程度である。土曜日、例会に出る前に大阪駅前から周辺をぶらつき、日曜日プールから帰ってから北堀江方面でお茶して雑貨店で品定めをしたくらいだ。
今日も遅くなったけど、夕方からプールに行ってきた。クリスマスだし誰もいないんじゃないかと思ったが、10数人の人が泳いだり歩いたりしていた。帰りに受付で鍵を返すとき、係りの女性がサンタの帽子をかぶっていた。「ありがとう」「おつかれさま」のいつもの挨拶を交わしたが、その次に「メリー・クリスマス」と自然に口から出た。
静かな夜の公園から見える高層マンションの上のほうで2カ所、ベランダにイルミネーションがまたたいているところがあった。月は中天、都会の静寂だなあ。
一昨日鮭をまるごと1匹もらったので、切って冷凍したりしたあとでマリネをつくった。それをおかずに、昨日はワインを今日はビールを飲んでいい気持ち。
プールに週に4日行こうと思ってもなかなか実行できないので、日曜日の午後もプールの日にした。いつものメンバーもいるけど、障害を持つ子どもなど日曜日だけの顔もある。その中に自閉症の子がいる。わたしの甥がもう大人になったけど自閉症なので、行動を見ていてすぐわかった。よく動くのである。グリーンと黒のちょっと目立つ海水パンツの男性がついている。わたしはずっとお父さんと来ていると思っていた。
プールに入っているかと思うと、上がってプールの側を走ったり、ジャグジーに飛び込んだりめまぐるしい。その行動についていたり、プールの中でもぐりや泳ぎをいっしょにやったり、見ているとほんとによくやっている。わたしの側にもけっこうやってくるので、声をかけたりしていた。そして気がついたのだけれど、お父さんと思っていた男性が同じ海水パンツだけど、その日によってちょっとお腹に肉がついていたりするのよね。おかしいなと思っていた。それに日によって90センチのほうにいたり、120センチのほうでもぐったりしている。
今日疑問が解けた。今日は側でもぐりっこをしていたので、ときどき「うまくなったね」とか声をかけていた。ニコッと照れて可愛い。お父さん、この間は親しくしゃべったのにと思っていたら、初対面ぽく「Aちゃんのことよく知っているんですね」と聞かれた。へっ! となって、「ここでときどき会うからね」と答えた。どうもお父さんと違うらしい。なんとプールから上がった後ろ姿を見ると、パンツの後に“プール・ボランティア”と書いてあった。なるほど、それでみんな同じ柄のをはいているんだ。
それに、肉親だとめんどくさくなったり、怒ったりするところを、きっちりと相手をしている。教えるべきことは教えている。訓練したボランティアなのだ。
わたしのわずかな経験からも、ボランティアしているとき通りかかった人の一言ですごくうれしいことがあった。これからもAちゃんに声をかけようと思った。今日はもう一人自閉症の子がいて、こちらはお父さんらしい人といっしょだった。
1989年のアル・パチーノとエレン・バーキンの刑事物映画。アル・パチーノはニューヨークの刑事だが、足の短さが強調されていて、いっこもかっこよくない。そこがいいというか、リアリティがあるというか、なかなかいいです。離婚していて、別れた奥さんは彼の同僚と再婚している。夜中の3時にその別れた奥さんに電話して、あとで同僚にモンクを言われる。おかしい。
でもこの映画ではエレン・バーキンの勝ち。横から見ると端正な美貌なのに、前から見ると愛嬌のある顔立ちになる。そのせいで色っぽいブロンドなのだが、庶民的な感じがする。ずーっと前「ダイナー」でミッキー・ロークの友だちの奥さん役をしていて、そのとき「ちょっと変わってて、ええなあ」と思って注目していた。
ニューヨークで3人の男が連続してベッドの上で全裸で殺される。死体のそばでは「シー・オブ・ラブ」のレコードがむなしく回転している。地区は離れているが同じパターンの殺しである。刑事たちはチームをつくり捜査をはじめる。殺された男たちと同じように雑誌に広告を出し、応じてきた女たちと話をし、ワイングラスに指紋を採る作業を続ける。その中の1人がエレン・バーキンで、アル・パチーノとの会話に反発しグラスに手をつけずに帰ってしまう。その後出会って2人の仲は接近するが、刑事のほうは惹かれていきながらも、彼女が犯人ではないかと疑いを強める。
以前見たときもよかったけれど、昨夜テレビで見てもあきなかった。エレン・バーキンはその後けっこういろんな映画に出演している。いまはどうしているのかな。
「冬の蝶」を書いたのが12日なのだけれど、ベランダの鉢植えに放したモンシロチョウが、とまる草を変えていたらしく、日光にあてるために出して、夕方部屋にもどした鉢植えについて、また部屋にもどってきた。窓辺に鉢植えを並べてある上の窓に、じっと止まっているのに気がついたのは3日もたってからである。
おー、生きている! 窓ガラスの結露が飲み水になっていたのだろうか。部屋の中といえども草の露もあるだろうしね。昼間はお日様があたる暖かいところに移動している。今日は思いついて砂糖水をティッシュに吸い込ませて持っていった。そばまでもっていったら、すぐにティッシュに乗ってチューチューといった感じで吸い出した。感動したよー。もうっ! いっぱい吸って満足したのか、窓のあちこちをひらひら飛んで上のほうにとまった。いつまで生きているのかな? 蝶々を飼ったのは生まれてはじめてである。蝶々も何日かこの部屋にいて、ここの住人を気に入ってくれたのかもしれないな。
ちょっと探し物があって古いファイルを開いたら「ロックマガジン」の付録のマンガが1冊出てきた。「ロックマガジン」の本誌のほうは整理してしまったが、これだけは大切にしまってあったもの。なぜかというと、わたしがベルベットアンダーグラウンドを知るきっかけになったものだからである。ビートルズもローリングストーンズも横目で見て、ジャズ一辺倒で70年代真ん中まで来て、突然、パンク、ニューウエーブに目覚めた。大慌てで学習(?)しているところで出会ったのが、近所に事務所があった「ロックマガジン」であった。未知の世界に入り込んで、ものすごくいろいろと吸収した時代であった。
マンガの作者はIKUMI KOHAMA。作者はこのマンガはジョン・ケールの歴史以外はフィクションだと断っているが、わたしは真実の物語として受けとめて喜んだものだ。
話はジョン・ケールがロンドンの音楽学校でクラシックを学ぶ前途有望な学生生活を捨てて、アメリカに渡るところからはじまる。ニューヨークでロックンロールに目覚めた彼はスノッブが集まるパーティで、退屈しているルー・リードと出会う。気持ちが合った2人はバンドをつくるが、2人の音楽は認められず、アパートからも追い出される。今夜でクビという夜に聴きにきていたのがアンディ・ウォーホルだった。ニコが入ってベルベットアンダーグラウンドの生活がはじまる。しかし、ニコは去って行き、商業的成功も正当な評価もくだされない状態で、ヤクにおぼれるルーをおいてジョンはイギリスへ帰る。【頂上を目指して不断の反抗と闘争を続けるシジフォスになる事以外に、いったいどんな道があるというのだ─】と音楽を目指すのをやめないジョン・ケールの姿がかっこいい。
わたしは1989年にニューヨークで行われたルー・リードとジョン・ケールのコンサート「SONGS FOR DRELLA」をレーザーデスクで持っている。ジャケットの黒地に浮かんだ2人の寄り添った顔がうれしい。音楽をすること、生きることを続けてきたからこその清々しい顔だと思う。
プールに行くのにバスを利用している。市バスというものをこんなに利用したのははじめてだ。時刻表をデジカメで撮ってきてファイルにはさんである。昼間は1時間に2台しかないので、時間を合わせて出かけるのだが、これが時間通りということはほとんどない。5分待ちだとオンの字である。10分遅れはざら、20分遅れだってある。だからって遅く行くと定刻だったり2・3分先に出ていたりするので、しっかりと時刻通りに出かけるしかない。
じっと待っているとゴドーを待ちながらの気分になってくる。向こうのほうからバスが来るのが見えると、なんかしみじみと幸運だなあって思える(笑)。1台抜けというのを日曜日の午後4時台で2回味わった。日曜日は1時間に3台なので20分ムダにしたことになる。
そんなもんでバスを待っていると、いっしょに待っている人とヘンな連帯感が生まれてくる。若い人と男性は話しかけないが、中年以降の女性は絶対というほど話しかけてくる。こちらから「00分のバスはまだですよ」と言うこともある。たいてい来ないバスの苦情と本数が少ないモンクくらいだけど、帰りは厚生年金病院前の停留所だから、病気の話が出たりする。歩いて行けるプールができるまで、市バスのお世話になるわけだけど、冬は待つのが寒い。時間通りに来てほしいなあ。
最近菜っぱがおいしいと思う。ほうれん草と春菊はおひたしにする。大根や蕪の葉っぱは茹でてチリメンジャコと炒める。ミズナ、シロナ、はくさい、小松菜は、揚げや薩摩揚げと炊いて食べる。チンゲンサイやターサイは豚肉の細切れや干しエビと炒めて食べる。セロリをたくさん食べる料理を丸元さんの本に教えてもらった。レタスはナマで食べるほかにおひたしにしたり、焼きめしをしたとき最後にちぎって入れる。
日常的にミズナとクジラを炊いて食べていたのはいつのことだったろう。ミズナをほかのものと炊いて食べるなんて考えたこともなかったくらいだ。クジラを食べないようになってから、一時凝っていたのは、ミズナと京揚げの鍋。土鍋に出汁と同じくらいにお酒を入れる。沸騰したら、ミズナと京揚げを入れてさっと上げて食べる。びっくりするほど揚げを食べてしまうのにびっくりする。
小松菜と揚げのみそ汁も好きだ。小松菜っておひたしもおいしいし、お雑煮に入れてもおいしいよね。
この1週間ほど毎晩風呂上がりにこの絵本を手にしている。久しぶりになにげなく開いたのだが、ページをめくっていくうちに、背筋が寒くなるような鳥肌がたつような感じになった。クーニーの絵本としては、好きの度合いは中間くらいだったんだけど、好きなほうに位置が変わってきたようだ。
ニューイングランドでもっとも大きい淡水湖であるクアビン貯水池は、昔、山があり川が流れる谷間であった。そこにはいくつもの小さな村や町があり、何代にもわたって人が住んでいた。そこが1927年から1946年の間に、家も学校も教会も墓地も永遠に水の中にしずんでしまった。大都会ボストンの人たちに水を供給するための貯水池にするために。
そのありさまをジェーン・ヨーレンが文章を書き、バーバラ・クーニーが絵にしている。主人公の少女が生まれた村で、彼女は毎日うねうねと続く道を学校に通い、友だちと墓地で遊び、川で釣りをした。夏の夜はホタルをつかまえてビンに入れるが、母に言われて放してやる。冬になるとカエデの幹にバケツをつけて樹液をとる。寒い夜は羽毛のふとんでキルトにくるまって眠った平和な日々。ところが村の様子が変わってくる。ボストンで大量の水がいるということで、この村を水の底に沈めるという。それからの村を破壊していく様子が語られる。人々はあちこちに移住していく。
大きな貯水池に水がいっぱいたまったのは7年後のことだった。少女は父親とボートを漕ぎだす。父はふなべりごしに、ここは学校、粉ひき場、教会、道のあったところと教える。夕方になり暗くなると風や列車の音が聞こえるような気がしてくる。亡き母の声も聞こえてくる。
子どものときのこういう経験の重さがひしひしと感じられる。わたしもまた生まれた家、育った家があとかたもないのを、今更のように思い出した。
昼と夜が逆転というほどではないが、朝が起きにくく夜が遅い生活になっている。「夜道に日は暮れない」とばかりに、仕事を夜に持ち越して、その上にこのページを書いてアップすると、緊張するから寝付きが悪い。その上にこの4・5日は会報づくりがある。1時、2時、3時になってしまうので朝がつらい。目覚まし時計をかけないので、9時を過ぎて起き出すことになる。悪循環だと思うんだけどね。
ところが、ゼロックスとアスクルに注文した日は早起きしないといけない。両社ともに前日に注文すると朝9時過ぎには届けてくれる。きっと届けるコースの最初の地域になっているのよね。一度、寝ているところを起こされたことがあって、カッコ悪かった。それで注文したときは起きていようと決意して(笑)目覚ましをかける。今朝は8時半に起きたが、ちゃんと9時3分過ぎにコピー用紙がとどいた。大量ファックスと会報用である。
毎日朝から深夜までパソコンに向かっている。仕事、銀行の残高照合や振込、帳簿、メール、掲示板の番人、そして会報づくりとなんでもパソコンだもんね。今日はプールに行くヒマもなかったが、プールに行くと目を休めることにもなるので、できるだけ行こうと思う。
久しぶりに歩いた御堂筋は雨だった。VFC会員のKさんが陶芸をやっていて、いま御堂筋に面したビルの画廊でグループ展を開いているというので、ちょっとのぞいてきた。ビルの3階にギャラリーがあって、窓から見るとイチョウの木のてっぺんあたりになる。ほとんど葉が落ちてしまって残った木や葉が寒そうだ。
昔、知りあいが民芸品に凝っていて、どこかに出かけるたびに食器を買ってきてくれた。いまも名残りのとっくりや盃やお皿を使っている。わたしも一時「銀花」なんか読んで、京都の古道具屋を見てまわったりしたことがある。だけど、わたしがお金を出して買えるようなものなら、普通の大量生産品で充分であることに気がついた。白地に藍のあっさりした模様つきがいま使う食器の基準である。と言いつつにぎやかなのも好きなのだが…。
そんなわけで、Kさんと会ってしゃべるという目的で出かけたのだが、なかなか良い作品に出会えた。われもこうやタンポポをさっと描いた皿、細かい花模様をびっしりと描いた湯飲み。Kさんの茶碗は椿の花が描いてあった。ふだん使いの食器として使ってみたい気がした。
Kさんと座りこんでながながとおしゃべりした。久しぶりだったのでいくらでも話題がある。わたしに必要なのは気兼ねなしにしゃべれる女友達みたいだわ。
天気が良い日は部屋の中の植木鉢をベランダに出して日光浴させてやる。若葉色のゴムの木と葉の繁ったトネリコと名前の知らないおもしろい葉っぱのと、いろんな多肉植物。みんなうれしそうに日を浴びている。夕方部屋にもどしてから3時間くらい経ったろうか。突然モンシロチョウがトネリコの葉の間から飛び立って、部屋の中をあちこち飛んだあと壁に止まった。
そっとつまんでベランダにある植木のところに持っていき、ミントに止まらせた。季節外れに生まれた蝶は、風に吹かれてうちのトネリコの木にやってきたのだろう。どうせ長くない命なら、暖かい部屋のほうが良かったかなと思うのは人間の勝手にすぎないんだろうな。
猫が生きていたら、「ほらほら、はなちゃん、ちょうちょ、ちょうちょ」と言って遊ばせてやったかもしれないな。そしたら猫はへんな声を出してヒゲをふるわせ、蝶を欲しがっただろうな。
今年のはじめに、水村美苗の小説が「新潮」に載っていると、当ホームページのサラ・パレツキーサイトやエッセイページに原稿を書かれている東田さんが教えてくれた。そして2回目の連載が載っている雑誌「新潮」を送ってくださった。それを読んだら、どうも前があるらしい。あわてて図書館に走って、第1回目を読んだ。それから毎月はじめの新聞広告を見て本屋へ買いにいった。そして、買う毎にはじめから読み直していた。たしか最近の3カ月は載ってなかった。もう大団円に近づいているのにと、じれったく思いながら待っていたら、今月発売の新年号の広告に【完】(230枚)と出たので、今日買ってきた。ご飯の後片づけもせずに、ようやく読み終わったところである。
「嵐が丘」のような作品を書くという話は以前から知っていたけど、ほんとにキャサリンとヒースクリッフのような主人公たちを登場させて、第2次大戦後の日本の状況と、資産家階級の家族のことを語るのは“女中”と自分のことを言ってはばからない女性である。彼女が追分けの山荘を偶然通りかかった祐介という青年に長い長い過去を物語る。
前に「私小説」という小説を書いた水村美苗が、今回は「本格小説」というタイトルで書いている。「私小説」は私小説として書きます、と少し離れたところから書いたのだとわたしは思った。「私小説」というものを否定しているというか、すでに「私小説」はありえないというところで書いたというか…。「本格小説」というタイトルはすでに小説というものがあり得なくなっている、というところで、あえてつけたタイトルなんだろうか。
そんな、なによりもかによりも、ここまでストーリーがおもしろいものをよく書けたなあと感心するばかりである。小説のおもしろさはストーリーにあると、わたしは思っている。この小説はすごい。なにやら興奮したままで書いた。
お気に入りの堀井和子さんの本を4冊出してきて読むともなく開いていた。4冊とも厚い紙をリング綴じしたしっかりとした本である。このページではもう何度も登場している。朝食の一品を教えてもらったり、ハーブの勉強をしたり、テーブルセッティングのヒントをもらったりしている。
今日はパンのところを開いていた。パンを焼くなんてとんでもないと、いつもは見ているだけなんだけど、突然やってみたくなってね。と言ってもうちにはオーブンがない。フライパンなら上等なビタクラフトのが2つある。ということで、フライパンでできるパンケーキを作ることにした。
「バターミルク・パンケーキ」というのならできそうだ。恥ずかしながら、薄力粉と強力粉がどう違うかも知らないので、いつも使っている全粒粉を使うことにした。薄力粉&強力粉は今度ポランの宅配に頼んでおかなきゃ。ベーキングパウダーを買ってきて、バターミルクの代わりにプレーンヨーグルトを使う。全部混ぜたらちょっと水分が多すぎたか、トロリとしすぎてフライパン全体に広がってしまった。全粒粉のせいで色が浅黒くなったが、メープルシロップをかけて食べたら、ほんま、バツグンの味であった。
この本にはフライパンでできるパンってけっこうあるので、これからいろいろと試してみよう。体重のことも考えんとあかんけど・・・
図書館で借りてきた古今亭志ん生のCDを聞きながら仕事をしていたら、えらく勉強になるはなしがあった。1963年に録音されたものでタイトルは「お直し」。廓(くるわ)ばなしのなかでも、もっともむずかしいと言われているものだそうだ。
このはなしは当時、いまから40年近く前のことになるが、そのころさえ廓というものが理解されにくくなっていた。それでマクラにさりげなく風俗や言葉の解説が入っているし、話のなかにも解説が加えられている。江戸風俗の勉強をしているみたいな気持ちになったりする。それによく聞いておかないとオチがわからなくなって笑えない。
吉原で花魁(おいらん)と妓夫太郎(ぎゆうたろう)がデキてしまうが、主人のはからいで、所帯をもち、二人は通いでそこの見世(店)で働くことになる。という筋書きなのだが、花魁が身を引いて新しく“おばさん”という職業に変わる。花魁という現役の仕事を退き、花魁を管理するほうの仕事につくことになる。そうか、“おばさん”というのは現役でない女のことをいうわけか、なるほど。
いままで、わたしは“おばさん”と呼ばれて、「あんたのおばさんでないよ」と単純に返事してきた。しかし、考えると“おばさん”と呼ぶ心理はそんな単純なものではない。“現役でない女”としての認識から発しているのだから、その返事は間違っていた。
これからは「わたしは一生現役の女なので“おばさん”と呼ばないでくれ」と言うことにしよう。なんてったって、こころは、生涯一捕手(笑)。
フランス映画が輝いていた時代があった。いまの朝日新聞社に建て替える前の黒いビルにある朝日会館で、古いフランス映画をやっているのをよく見に行ったものだ。
そこで見た映画はもうほとんど忘れてしまったけれど、強烈に覚えているのが「白鳥の死」だ。なんでバレエが好きになったのかを考えていて思い出した。
ジャニーヌ・シェレという少女がバレリーナのタマゴの役をやっていた。バレエの寄宿学校にいるジャニーヌには憧れている先輩がいるのだが、その人には競争相手がいた。ある日、憧れの人が踊っているときに大きい笑い声がする。実は他のことで笑っただけなのに、ジャニーヌは競争相手が自分の憧れの人のことを笑ったと誤解する。
誤解したまま日が過ぎていき、憎しみが増していく。ある日主役を踊る競争相手の稽古を見ていて、舞台の床の1箇所が、ちょうど開閉できるようになっているのに気がつき、下に行って支えの棒を外しておく。案の定、バレリーナがその箇所で旋回し、舞台の下に墜落する。そして足を折って再起不能になってしまう。
後悔の毎日を送るジャニーヌに新しく大役がつく。教師は踊るのをあきらめたバレリーナだった。うち明けようとするジャニーヌに、教師は「わかっている」と言って練習をするようにうながす。黒いロングドレスで杖を持った粋な姿がかっこよくってね。その前で白鳥の姿で踊る少女が可愛くてね。
この少女をやったジャニーヌ・シェレは、成長してほんとのバレリーナになって来日したことがある。見にはいかなかったけれど、新聞で名前を見てなつかしかった。
フィギュアスケートよりもずっと好きなものがあった。もう何十年も見に行ってないけど、クラシックバレエ。若いころはただ好きというだけで、高い入場券を無理して買ってずいぶん見に行った。見るのにお金を使うから着ていく服を買うお金がない。夏はTシャツ、冬はセーターといういまも変わらぬスタイル(一生このままだろうな)で出かけていた。あるとき休憩時間に立ち上がったら、周りの人たちはすんごい高価な服の人たちばかりだった。もっと若いとき行ったボリショイバレエ団のときなんか、そんなかっこでもヘッチャラだったんだけど、どうしたものか、そのときはえらくショックだった。わたしとしたことが、気がひけちゃったのよね。それ以来バレエには行ってない。ま、このときがバレエとの別れだったんでしょうね。それから青年は荒野をめざしたのだ。
でもヌレエフは別。ヌレエフのことはソ連から亡命したときや、マーゴ・フォンティーンと踊るようになった話を聞いて、気になってしかたなかった。評判ばかりが聞こえてきて、ただあこがれていた。
あるとき、ヌレエフの映画が上映されると聞いた。まだビデオがない時代だったから、舞台を撮った映画を上映したわけで、フェスティバルホールと同じビルにある小さなホールだった。満員の客がヌレエフの跳躍に大喝采した。「海賊」「ドン・キホーテ」などの舞台から抜粋された名場面を見られてどんなにうれしかったか。他の人のもあったが、もう全然違うのよね。厚生年金中ホールとか上映されるたびに行ったものです。同じものでも必死で見ていた。
いまはレーザーデスクで好きなときに見られる、ありがたいことである。
先日VFC会員のDさんと電話でしゃべっていたら「おたくは香りのある紅茶好きやったねえ。うちはアカンねん。もらってくれる? ラッフルズホテルのアールグレイやで」とのことで、こちらへの郵便のついでに送ってくれた。
ブルーグレイの上品な箱からほのかな香りがする。袋の端が少し切ってあるせいだ。ここから出して飲んでみて、アカンとなったらしいな。香り高いティーバッグがぎっしりと入っていた。さっそく飲んでみたら、お・い・し・い。ティーバッグって手軽だけどうちではあんまり使わない。お茶の葉をいれたほうがおいしいと信じているからだ。
しかし、このアールグレイはちゃいました。ティーバッグなのにすっごくおいしい。そして濃いので、1カップではもったいないので、ティーポットにいれて2カップにわけて2人で飲んでいる。うまいものは先に、というのが我が家の鉄則、毎日のように飲むので早くもなくなってきた。またもらったら、まわしてね。
「ローハイド」をテレビで見たのはいつのことだろう。60年代かなあ。毎週楽しみにしていて「ローレン、ローレン、ローレン、ローハーイ」と声高く歌うのに誘われてテレビの前に座った。なんと言ってもみんな隊長のフェイバーさんが好きだった。理想の男性像という感じかな。うちの父親はクリント・イーストウッドが嫌いで、彼が「フェイバーさん、フェイバーさん」と呼びかけると「甘えやがって、こいつ好かん」と毎回言うのだった。
今日借りてきたのはテレビ番組が2本(「コマンチの願い」「去り行く男」)入っていて、これがVOL.8だからたくさん出ているのやなあ。これを見たら全部見たくなってしまった。なんぎ。
牧場主から預かったたくさんの牛をテキサスからカンザスまで運ぶ道中で、いろんな出来事にあう。なんせたくさんの牛を連れているから水と草地が必要だ。そこで現地の人と交流しながら進んでいくのだが、コマンチ族の男を締め上げている悪徳牧場主と出会うと弱きを助けて強きを挫くし、悪い奴と闘うガンマンと出会うと助太刀する。要するに要らぬお節介でなく、要るお節介をしながら進んでいくわけだ。たいていフェイバーさんとクリント・イーストウッド扮するイエーツ青年がいっしょに行動する。イーストウッドのしなやかな体つきがとても魅力。ここからいまのイーストウッドがはじまったんやなあ。
重要な役どころの食事係りや、しっかりした部下たちが囲む。牛の群れといい、西部の情景といい、たくさんお金をかけてきちんと作ってある。西部劇の常套のセリフがあふれていて、いまだからこそ、見ておもしろいのだと思った。
「殺人は広告する」は、「ナイン・テイラーズ」の前に書かれた作品で、ドロシー・L・セイヤーズ自身が気に入らないと言っている。「ナイン・テイラーズ」を書くための専門情報を調べるのに時間がかかったので、その前にこの作品を無理に書いたそうだ。
無理にでも書けたのは、知り尽くした広告業界を舞台に選んだからだろう。セイヤーズはオクスフォード、サマーヴィル・カレッジを卒業してから、長い間コピーライターとして広告代理店で働いていた。ギネスのコピーを書いているのが知られている。この作品には1920年代のイギリスの広告業界が描かれていておもしろい。そして、現在から80年も前に、すでにいまの広告業界のかたちが存在していたことがわかる。
わたしの場合、ミステリー好きと言っても、殺人方法がどうとか密室がどうとか、気にしない読者で、探偵の人となりや脇役の魅力、探偵が活躍する街や場所で楽しむほうだ。だからこの作品のピーター卿がデス・ブリードンと名乗って、広告代理店に就職して働くのを楽しく読んだ。妹のレディ・メアリがスコットランドヤードの主席警部チャールス・パーカーと結婚しての生活ぶりもけっこう出てきて楽しめた。ハリエットのことは3行しか出てこないのが残念だけど。
広告代理店に勤務するコピーライターの中に一人女性がいて、そのミートヤードさんにセイヤーズの姿を移していると思う。だからピーター卿はミートヤードさんに【ブリードンは重々しくミートヤード嬢を見た。「あなたは美人なんて呼ばれても嬉しくないと思う。だが、仮に僕が絵描きだったら、あなたの肖像画を描いてみたい。とても興味深い骨格をしておいでだ」】なんて言うのよね。
今日は夕方からテレビっ子だった。ご飯を食べながらNHKのニュースを見て、その後のフィギュアスケート中継を見た。競技がすんでエキジビションということで、みんなリラックスしてすべっていた。
昨夜は夜中に女子シングルのフリーとアイスダンスがあった。恩田選手がよくすべって2位になった。愛嬌があって可愛い。アイスダンスの1位は、わたしが何年も前から目をつけている、フランスのアニシナ、ペーゼラ組だった。今回も女性が男性を抱き上げるシーン、ちゃんとありました。長い赤毛がすごくきれいでスカーレット・オハラのよう。「リベルテ」なんていかにもフランス人らしい曲をすべった。
スケートが終わると渡部篤郎の顔を見るために「北条時宗」を見た。来週が最終回だとのこと。ニュースの間に食器を洗って、お茶をいれて、9時から映画「交渉人」を見た。このての映画はけっこう好きなんで、数年前なら映画館に行っているところだ。シカゴ警察でのできごとということで、シカゴの街が前半よく出てきたのがうれしかった。なんてったってヴィクの街だもん。荒っぽい筋書きではあるけど、サミュエル・L・ジャクソン好きだし、いろいろと緊迫した場面の連続でひきこまれてしまった。ケビン・スペーシーと交渉人どうしのだまし合いが続くが、最後に信頼にかわるところがよかった。
写真:うつぼ公園のガーデンキャット