2001年8月
今日は水村美苗の「本格小説」が連載されている「新潮」9月号を買いに心斎橋の丸善まで行ってきた。発売日に雑誌を買いにいくなんて何年もなかった。だいたい数種以上の雑誌を発売日に買う習慣で何十年もきたのだが、最近はまず雑誌を買わない。「小説JUNE 」もめんどくさくなってやめてしまった。そのわたしをこうして本屋へ走らす「本格小説」は、すごい。もう連載9回目になるのだけれど、困ったことに他の小説がおもしろくない。お金を払ったから読まないとソンと思うけれど、ほんとにおもしろくないので、読んだら目が疲れてかえってソンとも言える(笑)。
思い出した。読んでる雑誌があった。パソコン、インターネット関係である。
たまに雑誌大好き魂がファッション雑誌を欲しがる。今日はリニューアル復刊第2号の「Olive」を買った。だいたいこういう場合良くなることはないが、おしゃれで上品ではあっても勢いがない。他のファッション誌よりも写真も記事もいいんだけれど、あんまりリニューアルの効果はないんではなかろうか。ま、若い人がどう受け止めるかで、わたしが出る幕ではないが。もとオリーブ少女だったわけでもないし。でも、きれいなモデルの少女たちの姿をなにげなく見ていると気持ちがよいわ。
「左きゝの拳銃」(1958)は「ボニーとクライド/俺たちに明日はない」のアーサー・ペンがはじめて監督した作品である。若き日のポール・ニューマンが、西部の歴史で有名なビリー・ザ・キッドの内面と行動をみせて、いまも魅力的。
10年ほど前にエミリオ・エステヴェスがビリーになった「ヤングガン」を見た。あの映画でも尊敬する人を殺された復讐をしなければならず、復讐することが人殺しになると言われても行かねばならない心情が描かれていたと思うが、もう10年も経つのでおぼつかない。ましてや「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」(サム・ペキンパー監督)など忘却の彼方と言っていいくらいなのだが、ビリー・ザ・キッドという名を聞くだけで心が騒ぐ。
この「左きゝの拳銃」でも、字が読めないが心根の優しい青年と見て世話をしてくれた恩人が、町のボスと悪徳保安官ら4人に待ち伏せされ殺される。ビリーは4人のうち2人までを殺して逃げるが、怪我をしているところをパット・ギャレットに世話される。パット・ギャレットに、もう人殺しをするなと釘をさされても、あとの2人を人殺しではない復讐だと言って撃つ。そのあとは人殺しの連続の生活にならざるを得ない。
パット・ギャレットは若者をなんとかしてやろうとするが、ビリーは突っ走る。友だちを殺されて、一人でなじんだ町へ逃げるが、最後は丸腰でパット・ギャレットに撃たれて死ぬ。
他にどないしたらええねんな、という問いを残して、どの作品もせつない青春映画である。
わたしは殊の外オトコマエが好きである。ちゃうちゃう、今日はそのオトコマエの話やなかった。わたしがオトコマエと言われた話やねん。今日友人から手紙をもらった。そこを引用させてもらうわね。【杉谷さんは、若い子の言葉で言うと「男まえ」なんですよねえ、ホンマ】。こんなこと言ってもうて、ホンマ、うれしいわ。
数年前に4F(主人公、作者、翻訳者、読者が女性)ミステリーの女性探偵がもてはやされたころ、アメリカではヴィクやその他の女性探偵たちはヒロインではなく「ヒーロー」とよばれた。わたしはヴィクと新しく登場した女性探偵たちについて、毎日新聞夕刊にたった一度原稿を書いたことがある。そのとき彼女たちをヒーローと書いたら、担当の記者にヒロインの間違いではないかと指摘された。それで注釈をつけた覚えがある。
それから「ハンサムウーマン」という言葉もあったよね。こんな言い方をされたら恥ずかしいやん。どこかがむずがゆくなれへん?
「オトコマエ」はその点からっとしてええ感じ。それでついあちこち自慢メールを出してしまった。アホやなあ。
旨い蕎麦が食べたくなって、旧友がやっている蕎麦屋へ行ってきた。30年も昔、天王寺にあったジャズ喫茶で知り合ったNさんが4年前からやっている店「そば切り天笑」である。開店のときから行こうと思っていたのだが、出不精の私たちには枚方市という場所が遠い。毎年年賀状のやりとりでお互い生きているのを確認しているような状況であった。
先日突然「旨い蕎麦を食いたい」という気持ちになって電話した。なんとなく、しこしこやってるんやないかという感じで電話したんだけどね。なんと、知らないのはわたしたちだけと言いたげなNさんの応対。おいしい蕎麦で有名な店なのだそうだ。インターネットで検索したら、ぞろぞろと「旨い蕎麦の店」という情報が現れてきた。
そんなわけで、久しぶりに地下鉄オンリー生活から脱出、京阪電車で出かけた。「そば切り天笑」は枚方市駅下車、線路沿いに大阪の方に向かって徒歩3分のところにある。
普通の蕎麦屋という先入観ではまごついてしまう。白いのれんのむこうはおしゃれなドア、向かって右側に大きいガラスの窓がひろがっていて、カエデとトネリコと野の草が植えてある小さな庭がある。瓶には水草が浮いている。のれんの左側に蕎麦を打つ場所があって外から見えるようになっている。中に入ると広い土間に長さ6.5メートルの一枚板(アフリカ産のブビンガという木)のテーブルに、椅子が16脚ゆったりと並んでいる。
Nさんに会ったのは10年ぶりくらいだし、それぞれ違ったやりかたで生きている。彼のほうがずっとダイナミックだけどね。それでもいつ会ってもツーカーなのがうれしい。
それで、肝腎の蕎麦なんだけど、これがねえ、おいしいかった。全国の蕎麦の生産地を自分で出かけて確保している素材でつくっている。普通の蕎麦と粗挽きそばがあって、両方のざるを食べた。粗挽き蕎麦、ちょっと太くて短くて野性的な感じで盛られている。そのあと、鴨しる蕎麦を食べた。ざるを熱い鴨とネギの入った汁で食べる。すごく滋養になったという感じで、夏負けなんてふっとびそう。地酒も蕎麦に合うように選ばれたものばかりでおいしかった。食器も厳選しているけど、お箸がね、蕎麦を食べやすいように一本一本木を削ってつくっているそうだ。
食べ終わって店の中を見せてもらった。朝6時にはここで蕎麦を打つという場所。大きな木をくりぬいたそば粉を練る器、一枚板の台、まな板、包丁、桜や檜やイチイでつくった9本ののし棒など、道具にこだわっているのも彼らしい。
壁の絵や置物も選び抜かれたもの、陶器作家が作った小物も楽しい。土の感触がする小皿と小さな仮面をおみやげにいただいた。昔の仲間や友だちを誘ってこれからは度々来なくては。
むかし、吾亦紅がどんな花か知らないで吾亦紅がすきだった。若山牧水のうた「われもこう すすき かるかや 秋草のさびしききわみ きみにおくらむ」が好きで、勝手に花まで好きになっていた。また「われもまたあかし」と読めば、少女小説的に地味な少女の自己主張と言った感じがする。
いつこの花を覚えたのか知らないが、秋ハイキングに行けば、野道で見つかるポピュラーな草であった。泉北に住んでいるときも、ちょっと丘みたいなところへ行けばあったのだが、
野の花ブームのせいか、いつのまにか花屋で売っているようになった。最初はうれしかったけどね。なんかかや言っていてもやっぱり毎年買ってしまう。
だれかが言ってたけど、オバサンのグループがハイキングで騒いでいるので、なにかと思ったら道端に吾亦紅があったそうだ。さだまさしの歌に出てくるので、誰かがこれが吾亦紅と言ったのが騒ぎの原因だったとのこと。
そんな話を聞くとあほくさくなってしまうが、でも好きなんやもん。で、今日例の靱公園横のおしゃれな植木屋さんでわれもこうの苗を買ってきたんですよ。苗だけ鉢なしで850円であった。苗だけ見てたらなんの草かわかりゃしない。
今日はこの夏最高の38.4度まで気温があがったそうだ。それでもがんばって(笑)、午後3時をすぎてから四つ橋筋まで用事があって出かけた。なにも用事は今日でなくてもいいのだが、アランジアロンゾが引っ越ししてきて開店しているはずなので、行ってみたくなってね。も一度インターネットで確かめると、引越案内が新しいビルの案内に変わっていた。なんと安藤忠雄設計のコンクリート打ちっ放しのビルだって。すごいなぁ。
行ってみると、2・3年前からお洒落な店が続々開店している一帯で、当時はカナダ村と言っていたが、いまもそういうのだろうか、その通りにあった。コンクリート造りのビルに鉄枠のあるガラスのドアがある。ゆったりした店内で、商品を置いてある棚なんかもゆったりしている。これからは大人っぽい雰囲気で展開していくのかな。Kさんにビデオを借りたお礼、Oさんにブレスレットをつくってもらったお礼の小物を買った。自分用はやっぱりレターセット。ピンクのうさちゃんのやつ2種類。
お店を出てぶらぶらとアメリカ村へ出た。エスニックな雑貨店に自然素材のカゴがいっぱいあった。以前ならここで買っているところだが、今年はじっとがまんの子である。こんな辛抱を強いられるなら来んといたらよかったと思いましたですよ。
そうこうしているうちに雷鳴が聞こえ大粒の雨が降ってきた。足の調子がまだで走れないのがまどろっこしい。覚悟を決めてゆっくりと心斎橋の地下鉄まで歩いた。少々濡れたがありがたい恵みの雨であった。
今日は暑かった。格別暑いという言いかたよりもひとつ上、めちゃくちゃ暑かった。お昼頃銀行へ行ったんやけど、道路から熱気があがって、それがちょうど顔やアタマのへんでただよっている感じ。そのせいでアタマがにぶくなっているように感じられる。あっは、アタマの弱さを暑さのせいにしているわ。
夜になるとさすがに風があってありがたい。クーラーをとめて窓や戸を全開した。風鈴がチロリンとなっている。でもコピー取りをしていると暑いわあ。コピー機全体が熱をもっていて、側に立っていると地獄やわ。
昨日グリーン先生のことを書いたら質問がたくさん(合計2つ)きた。髪はどうやったかって。みな考えることは同じや。ええー、髪は普通でした。つまり普通に生えている髪を普通に整髪しておりました。いまから10年以上前の1989年の映画やからね。
生真面目な役が似合うと思われての配役なのか、ちょっとおかしいほどに生真面目な役を生真面目に演じていた。先輩の刑事役のフォレスト・ウィテカーが楽しそうにやっていたのが印象的。わざとだと思うけど、山城新伍は「ER」のことを言わなかった。