2001年5月
よく雨が降るけど梅雨に入ってしまったのかしら? まだ梅雨のはしりなのかな?
ちょっと銀行に行っただけで、何カ所か紫陽花が咲いているのを見た。雨の中きれいな色に咲いている。梅雨の暗い雨空の下できれいな花が咲いているを見ると明るい気分になる。花が大きいし、花の色がきれいだし、色が変わっていくし、とても良い花だと思う。同じ季節の花としてはわたしはクチナシのほうが好きなんだけどね。
弁天町を歩いていたら(最近弁天町の話題が多い)、歩道の真ん中がちょっと割れているところがあって、そこからなんと、アザミの大木(草だけれど、枝が張って大きいねん)が伸びていて、花がひとつ咲いていて、無数のつぼみがついている。その生命力に驚いた。また、抜かずにそのまま生やしてあることに感動した。また明日もプールに行ってそこを通ろう。
知り合いのパン屋の女性が、お店の前に伸びていた黄色い花の雑草をビルの掃除のおっちゃんに抜かれてしまったと嘆いていた。毎日見るのを楽しみにしていたそうなのに…。雑草の運命ってそんなものよね。また種が飛んできて生えてくるさ。もう元気にネコジャラシがあちこちに出てきてるやん。
カズオ・イシグロの本を読んでいる間、とても幸福な気持ちが続いていた。その前は水村美苗の「新潮」連載の「本格小説」を読んでいる間に幸福感を味わった。数冊の「新潮」を解体して「本格小説」だけをを取って綴じてあるのを何度も読み返している。カズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」もまた何度も読み返すだろう。
ミステリでも、イアン・ランキンのリーバス警部もの、スティーヴン・グリーンリーフの私立探偵ジョン・マーシャル・タナーものを読んだときに満足感で満たされたものだ。
しかし、それ以上に、サラ・パレツキーの「ハード・タイム」、カズオ・イシグロと水村美苗の作品は、わたしのこころにぐさっときた。なんと言うんだろう。ただ純文学なんて言葉で表現したくない、なにか。人生の本質に触れられたような気持ちと言おうか。
苦しい結末で終わろうとも、やるせなかろうとも、読み終わったときの幸福感が味わえて幸せ、幸福感が味わえる幸せを噛みしめている。子どものころから小説を読むことはわたしの幸福の源泉だった。小説を読むたのしみ以上の幸福をわたしは知らない。
読み終わって時間が経ってもやるせない気分が抜けない。主人公クリストファー・バンクスの母が陥った境遇を考えると、くやしい、せつない、やるせない感情がわき起こってくる。そして彼女を貶めた男たちへの嫌悪感がわき起こってくる。
阿片貿易をやめさせるための運動に夢中の、きびしい倫理観を持ってすっくと立っている強く美しい母。そういう妻を愛し尊敬していた父だったが、立派な女性と暮らすのに耐えかねて愛人と失踪してしまう。その後、母は運動の同志として尊敬して接していたフィリップおじさんと中国の軍閥ワン・クーが仕組んだ罠にはまる。誇り高い白人女性を妾にするという快感、白人女性に暴力をふるう快感のためにワン・クーは母を連れ去る。母が耐えたのは息子をイギリスで教育を受けさせるお金のためであった。フィリップおじさんは自分が手を出せなかった惚れた女が中国人の手に落ち、暴力を受けることに得も言われぬ快感を覚えていたのだった。
クリストファー・バンクスが名門大学で教育を受けられたのも、名探偵と名をはせるようになるために入り用だった叔母の遺産も、すべて母の犠牲で得られたお金によってまかなわれていた。なんという人生、母の、父の、おじさんの、友だちの、恋人になりそうだった女性の、さまざまなやるせない人生が、わたしを眠らせない。
カズオ・イシグロの小説は「日の名残り」を読んであと2冊を立て続けに読んで、とても好きになったのだが、前作「充たされざる者」は読んでいない。あわてて読まなくちゃ。
1923年にケンブリッジ大学を卒業してロンドンで暮らすことにしたクリストファー・バンクスは、探偵になろうと決意する。そして難事件を解決して有名な探偵として名をはせるようになり、社交界にも顔を出すようになった。彼は上海で生まれ子ども時代を過ごしたが、両親が相次いで失踪してしまい、孤児となってイギリスの叔母の元で育った。社交界でサラという女性と知り合うが、煮え切らない間柄を保つ。あるとき、孤児になった少女ジェニファーを引き取り親代わりになる。
子ども時代は上海で商社に勤める父と、阿片撲滅運動の有名な活動家の母の間に愛情いっぱいに育てられていた。家にはいつも活動家がきて会合を開いていたが、そのなかでもフィリップおじさんが、母とともに活動の先端にいた。隣にアキラという日本人の少年がおり毎日遊んでいる。その上海での暮らしと遊びがえんえんと書かれていて、その生活を両親の失踪でいっきょに失う。
1937年いよいよ両親を探しに上海に行く。子ども時代を書いている章もしつこく不思議な雰囲気なのだけれど、大人になり立派な探偵になったバンクスの行動がこれまた非常に不可解で、迷路をさまようような読書となる。20年も経ってまだ両親が監禁されていると信じ込んで上海の官僚や軍隊に働きかけるし、その相手もその話を肯定した態度で応対しているのも不可解。常に監視されているなかで独自行動をとり、国民軍と共産軍、日本軍の戦乱の中を探し歩いていて、中国人に取り囲まれている兵隊のアキラを助ける。アキラといっしょに監禁されているはずの家を探すが、もちろん両親はいない。アキラもアキラなのかアキラでないのか。日本軍に見つかり英国領事館に戻されたあとに、イエロー・スネイクという組織のボスに会う。思いがけない人であった。想像もしなかった父のその後と死、母のめちゃくちゃに悲惨なその後の生活を知ることになる。
最後は1958年香港、母がずっと愛してくれていたことを確認できたのがバンクスにとっても読者にとっても救いになるが、やるせない最後がたんたんと書かれている。(早川書房 1800円+税)
どくだみの花が好きだと言って姉妹たちにさんざバカにされたことがある。あんなに可愛いのに便所の花みたいに言われて可哀想な花だとずっと思っていた。最近は野の花派の人たちが可愛いと言っているので、姉妹たちの気持ちも少しは変わったんじゃあないかな。
どくだみの花がすぐ近所の空き地に群生しているのを見つけて採ってきた。コップに挿すと真っ白の4つの花びらがきれいだ。
昨日、弁天町の道を歩いていたら、後ろから自転車で来た年配の女性が、すぐ横に来て自転車を降りて話しかけてきた。もちろん知らない人である。「どこ行くのん」「えっとプールへ」「ええ身分やなあ」おいおい、なにを言うねんな。いまプールに行っても夜中に働いているかもしれへんやんか。わたしは気の弱さからつい「足の調子が悪いんでプールで歩いて治しますねん」と言い訳めいて言ってしまった。そしたら足が悪いのは水のせいだとひとしきりしゃべって、「ほな」と言って走り去った。なんやろ。わたしは知らない人にしょっちゅうしゃべりかけられる。エレベーターで、電車で、バス待ちで…。でも、走っている自転車から降りて「どこ行くのん」は、はじめてであった。
今日はVFCの例会日だ。気心の知れた友人たちとのおしゃべりほど体に良いものはないよね。
昨日の午後、日がさしてきたので傘を持たずに出かけた。地下鉄もバスも中途半端なところなので歩いていったのだが、途中で雨は降ってくるし悪いほうの足がだるくなるしで困ってしまった。コンビニでビニール傘を買おうと思ったが見あたらない。さいわい本屋があるのに気がついた。
雨宿りをしながら足を休めて、雑誌をたくさん立ち読みしたので「噂の真相」でも買おうと思ったが、パソコン本の棚を眺めたら、宝島新書が並んでいるのが目に入った。見に行ったら「エクセルが使える!」(700円+税)があった。
わたしは仕事がらエクセルはよく使ってきた。しかし、本来の使い方でなくカタログ用の表をつくるためだったりして、表計算ソフトの“表”としてしか使っていなかった。“計算”のほうはさっぱりで、足し算と引き算ができるだけである。VFCの簡単な金銭出納簿くらいしかできない。ちょいちょい人に使い方を聞かれることがあるのだが、半端な説明しかできないので少し勉強したいと思っていたので、ちょうどよかった。
実は家には分厚いエクセルの解説本がある。これ読んでもチンプンカンプンなんだよね。簡単なことを知ろうと思ってもどこに書いてあるのかわからない。わたしはマニュアルを読むのが大の苦手なんである。でも、宝島社の本はなんの解説本でもわかりやすいし、素人が知りたいことをちゃんとおさえて書いてある。
今回もそう、エクセルを使いこなすことがどんなに便利なことか、というところからはじまって、実際に使えるようになっていく過程が見える。これはウィンドウズのエクセル本なのだけれど、わたしが知りたいくらいのことはマックでもいけそうだ。
フレッド・アステアのものはなんでも見たいという執念があるのだが、「イースター・パレード」だけはなぜか見る気がしなかった。子どものときに姉に連れて行ってもらった覚えがある。そのときはひたすらアメリカ文化に圧倒されてしまった。本もクレイグ・ライスやレイモンド・チャンドラーなんかをわけもわからず読んでいたから、まったくアメリカ文化一辺倒だった。その後は、コーラを飲むのをやめたりしたこともあったけど(笑)、アメリカの映画と本が好きなのはずっと変わらない。しかし、この映画を見たときの驚きはいつか消えていた。「ザッツ・エンターテイメント」なんかでダンスシーンだけを見て、かったるいと思ったからかもしれないけれど、アステアとしてそんなに良いダンスとは思えなかった。
ところがですね。昨日見ておどろいた。「イースター・パレード」はアステアのダンスにとって大切な曲がり角の映画だったのでないだろうか。わたしはRKO時代のジンジャー・ロジャースとのうるわしいダンスが大好きだけれど、生きていこうとしている当時のアステアは新しい時代に合ったダンスを考えなければならなかった。この映画の出だしでロジャースと同じようなダンスをするアン・ミラーが、独り立ちすると宣言して離れていくというエピソードはまさにアステアとロジャースの関係だろう。
一人になったアステアはバアで踊っている田舎娘のジュディ・ガーランドを見つけて、仕込んでパートナーにする。そしてステージに立つがさんざんだった。アン・ミラーに私の真似をしないでと言われて、はっとする。ジュディは彼女の持ち味を活かしたダンスをしたらいいのだ。そこで乞食スタイルのコミックなダンスを考え成功する。新しい時代に向かうアステアと新しいタイプのスターであるジュディ・ガーランドの映画なのだった。
アン・ミラーのショーに出かけて、彼女に手を引っ張られて踊るダンスはすでにRKO時代の優雅さがない。体は踊っていても心がここにないとダンスは美しくないということを現しているんだろうけれど、ああいうタイプのダンスの終焉をこの映画は告げているように思えた。
ウィメンズネット・こうべの編集による本「女の伝言板 パート2」(1200円)の8年ぶりの改訂版が発行された。女性がなにかあったときに役立つ相談機関などを集めていて便利な本である。いざというときの情報のみならず、生活に役立つもの、文化に関するものなどを神戸を中心に大阪、京都も入っている。
今回は編集者からヴィク・ファン・クラブもお誘いがあったので入れてもらった。50ページ「表現する」というコーナーに入っている。
めくっていくと、わたしが行っているハリの診療所も出ているし、女性ライフサイクル研究所も出ている。また、昔の友人も出ていたりして、元気でやっているんやと安心したりした。
それに、こうして見ていると関西にもいろんな活動をしている人がいるんやなあと心強くなるし、いざというときに相談できる弁護士さんや相談機関を知っていれば、ふだんの生活をしていても不安なく暮らせるような気がする。
「21世紀の自閉症」は、2000年9月に開催された横浜やまびこの里設立10周年のシンポジウムの記録を本にしたものです。わたしの妹の息子が自閉症ということもあり、妹がこのやまびこの里の設立に最初からかかわってきたこともあって、設立当時から後援会に入っています。といっても毎年会費を少しばかり払ってるだけですけど。
毎月送ってもらっている小冊子「マンスリーやまた」は、自閉症の人たちを援助している関係者の書いていることが楽しくて愛読しています。楽しさの中に現在の自閉症の人たちが置かれている状況がわかり、その状況の中で前に進んで行こうとする人たちがいることに励まされます。今回、後援会の会員にこの本を送ってくださったんですが、すごく内容が良いので紹介します。
第1部は佐々木正美さんの記念講演です。佐々木さんはお医者さんで、やまびこの里の理事でもあり、自閉症の子どもを持つ人たちにとって力強い人です。この講演を読むだけで、自閉症の人たちとはどういう人かがわかります。
第2部はシンポジウムで「豊かな暮らしってどんなことだろう」というテーマです。自閉症にかかわっている人たちの具体的な話をうなづきながら読みました。ふつう自閉症というと子どものことだと思われるでしょうけど、やまびこの里は成人した自閉症の人たちを支援するところです。彼らの考え方、生き方をどう支援していくか、彼らを幸福にすることへ向かってどう支援するかという話なんです。グループホーム、作業所、地域の中の暮らしのさまざまが語られています。
最後のほうで佐々木さんが話されているのが印象的だったので引用させてもらいます。【我々と違った人たちだから、私たちとは違う幸福というのがあるという発想が必要なんですね。(中略)私たちの期待するようなことが出来るようになることが、彼らの幸せではない場合があり得るということをご承知おきいただくということが大切だと思いました。】
この本は「VISUALメッセージライブラリー」シリーズの10冊目です。興味を持たれたかたはメールをください。
出版順に読んだらいいと思って、「悲しきバイオリン」を先に買って読んだんだけど、残念なことに「おやつ泥棒」のほうが前の作品になるのだった。警察署長が「悲しきバイオリン」では若いエリートでモンタルバーノ警部と対立するけれど、こちらは定年前の人でほんわかした関係である。イカ墨のパスタを食べにおいでとよんでくれるが、約束の日になると用事ができるのがおかしい。
そして、フィアンセのリヴィアとの間の養子みたいなのに、田舎に預けっぱなしのフランソワとの関係がわからなかったのだが、「おやつ泥棒」でおやつを盗むはめに陥ったのがフランソワなのだった。また「悲しきバイオリン」で、死体の発見を電話するように頼んだ車いすの老婦人もこの本で初登場する。何冊目か知らないが、要になる作品のようだ。
すいすいと読んでいるうちに事件がどんどん広がり、どたばたと人が動き、どんどん解決に向かう。そのかん、警部はしっかりおいしいご飯を食べている。魚料理とパスタの組み合わせが多いがほんとにおいしそう。家に帰り冷蔵庫を開けると、家政婦がちゃんと新鮮な魚や温めたらよいものを入れてある。アメリカの私立探偵とえらいちがい。
事件がチュニジアと深くかかわってくるが、ヨーロッパはアフリカと近いのがよくわかる。フランソワもチュニジア人の母と行きずりのフランス人の間に生まれた子である。母を亡くしたこの子とリヴィアの息づまるほどの愛情、せつなくなるほどのモンタルバーノ警部の愛情が、この作品の中心になっている。
モンタルバーノ警部は仕事はよくできるが、次の署長に推薦されることは拒むし、フィアンセのリヴィアとも結婚に踏み切れないなど、大人になれない人だ。死にかけている父親にも直面できないでいる。誰にも言わずに休みをとり、おいしいご飯を食べさせる宿に泊まり、同宿の教授と話す。父のことをうち明けた教授に「あなたは目をつぶって、世界を消したと思っている子どもと同じだ」「いつになったら大人になる決心をなさるのですか?」と言われてしまう。
そこで、宿から出て、事件を解決し、退職する署長と食事をし、フランソワを養子にする手続きをリヴィアに知らせ、父親が入院している病院へ行くが父はすでに亡くなっていた。事件解決の裏の動きで次期署長になるという線は消えた。それで後の作品ではキャリアの署長が出てくることになる。(ハルキ文庫 820円+税)
セロニアス・モンクの演奏をはじめて聴いたのは映画「真夏の夜のジャズ」(1959)だった。1958年にニューポートで行われたジャズ・フェスティバルを撮った映画である。日本での上映は60年代に入ってからだと思うが、わくわくしてロードショーに行った記憶がある。夢中になって見た帰りに、映画館のロビーで都合の悪い友人とばったり会ったのだった。(なんでそんなへんなこと覚えているんだろうね。)
この映画ではじめて知ったミュージシャンが多く、アニタ・オディ、ジェリー・マリガン、ダイナ・ワシントンそしてセロニアス・モンクもはじめてだった。サントラ盤みたいなのを父親が買ってきてよく聴いた。まだLPではなくてハイファイとやら言っていたんじゃないかな。はっきりしないけど。
とにかく顔と演奏スタイルでジェリー・マリガンに惚れて、音としぐさでセロニアス・モンクに惚れた。そのあとに北八ヶ岳に登ったんだけど、秋で青い空の下、木陰に寝ころぶと「ブルーモンク」が口をついて出た。登山記を山の雑誌に書いたのだけれど、「ブルーモンク」のメロディと、小さな花をちぎって恋占いをしたことなんか書き連ねてね。若かったんやなあ、と感慨にふけっちまうよ。
それからだいぶ経ってからだと思うけど、モンクが大阪にやってきた。サンケイホールの前のほうの席をがんばってとってひとりで出かけた。このころは映画も音楽も新劇も歌舞伎も登山もひとりでどん欲に出かけた時代だった。生き急いでいるみたいに。
モンクはピアノを弾くだけでなく、お酒のビンを片手に持ってふらふらと踊っているのか、ふらついているのかって感じだった。もうっ! なんとも言えなかったわ。ちょっと音程をはずしたような、ちょっと音をずらしたような感じが、たまらんかった。トレードマークの帽子がねえ、すっごくカッコよかった。
最近若いときのモンクをCDで聴いたら、すごく真っ当なピアノなんでびっくりした。ちゃんと弾けるんやんか(冗談)って笑ってしまったが、モンクの音楽って知性があるって感じがするのよね。モンクがいることでモダンジャズがよりおしゃれになったって感じがする。
今日はいろいろと厄介ごとがすんだのでヒマ。バスの昼間回数券というのを買ったのでどこかへ行ってみよう。といっても行きたいのは本屋さんしか思い浮かばない。大阪駅前行きというのがアパートの前の道を走っているので乗った。30分に1台というのが困りものだが、これからは時間をメモしておいて、その時間に間に合うように出ればいいのだ。大阪駅前のひとつ手前(桜橋)で降りたらジュンク堂がすぐそこ。いままでなんで地下鉄乗り換えて階段上がったり降りたりしてたんだろうねっ。
ジュンク堂ではカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」、辻邦生の最後の評論集「微光の道」、モンタルバーノ警部もののもう1冊「おやつ泥棒」を買った。
帰りもバスに乗ろうと思って停留所を探し、ベンチで本を読みながら待っていた。戻りのバスはうちのすぐ側に止まるのだけれど、それではあんまりアイソががないので、なにわ筋を通るのに乗りチャルカに寄った。バスはええわ。地下鉄ではわからない街の様子がよくわかって楽しい。
チャルカではコーヒーとバナナケーキを食べ、イギリスの古い絵本、猫の絵はがき、可愛い袋、等々買ってしまった。今日はもう本を買ってしまっているのに、と反省しても後の祭り、今月の後半の食生活、衣生活はどうにもこうにも節約生活せんとあかんことになった。
お茶が好きでいろいろなのを飲む。ふだんご飯の後はほうじ茶、そのときの気分でウーロン茶、柿の葉茶、煎茶、ジャスミン茶なんかを飲む。日常的にお茶というときは紅茶で、ダージリン、アッサムなんかを濃くいれてストレートで飲む。どこかへいくときは魔法瓶に紅茶を入れていく。自販機のお茶はほとんど飲まない。もったいないやん。コーヒーはときどき、喫茶店に入ったときに飲む。
ハリの先生が連休にチベットに旅行されて、お茶をおみやげにくださった。薔薇とジャスミンの、日本ではちょっと手に入らない上等なお茶だそうだ。
薔薇茶はお湯をそそぐと、濃いピンクの小さい薔薇の花が開いて薔薇の香りがただよう。味よりも目に贅沢なお茶である。すごくロマンチックな気分になる。この場合、お茶の薬効よりも精神的なほうに効果がありそう。
ジャスミン茶はふだん適当な値段のを百貨店の中国料理売り場で買っているが、白いジャスミンの花が混じっていて、香りもよいし、炒めものや麻婆豆腐なんかの後に飲むと油分がとれていくような気がする。今回いただいたのは花は入ってなくて、葉がきっちりと巻いてある。色も形もシジミの中味みたい。手仕事で巻いているのだそうだ。急須に入れお湯を注ぎ、ふたをしてちょっと待ってから茶碗に入れると、普通のジャスミン茶とぜんぜん違う香りと味である。あまーい、ふかーい味。急須の中を見たら、葉っぱがのびてなんだかおかしなものに変身している感じ。居ながらにして中国の深い味に触れられてしあわせいっぱい。
田辺寄席のOさんが、田辺大根の花と種をつけたところの2枚の写真の、大きなカラーコピーを送ってくださった。白い花びらの先のほうがピンクがかった紫色になっている。種は先が尖っているが、2つの豆が入っているのがわかる、まるまるとした莢がいっぱいついている。どちらもとてもきれいで生命力があって見とれてしまった。
去年の秋、田辺大根の種を蒔いたのが育って、年末には大根炊きなどずいぶん遊ばれた様子が田辺寄席ニュース「寄合酒」に書いてあった。今年はまたその種を蒔いたのが育っているのだろう。Oさんの生活ってほんとに足が地についているって感じがする。
わたしの生活はポランの宅配で無農薬野菜なんぞを配達してもらっているけれど、育っていくものを知らない都会生活を送っている。育てているのはハーブくらいだもんなあ。
でもね、わたしの特技(ってほどでもないが)は食べられる草を知っていることだ。いざとなったら、ナズナ、ノビル、オオバコ、ハコベ、アカザ、タンポポなんかを町の中の草地を探して食べるぞ。「マッドマックス」みたいな時代がきたら役に立ちそうと笑われそうだが、来ないとも限れへんもんね。
イアン・ランキンの新作を読むたびに目が悪くなるような気がする。全ての本がハヤカワポケット・ミステリで字が細かくて厚い。今回は506ページあり、値段は1800円と消費税が90円、2000円でおつりが110円しかない。わたしも細かくなったなあ、この間はバスの回数券の細かい差を喜んでいたっけね(笑)。
スコットランド、エジンバラのリーバス警部は上司にうとまれ、スコットランド議会の保安問題を検討する委員会という閑職にまわされる。そこで歴史的建造物をいやいや見学しているときに建物の地下室で20年前殺された死体が見つかった。数日後にはスコットランド議員立候補者が殺された。またその後に橋の上から投身自殺した浮浪者がいた。若手の刑事たちの地道な調査ととリーバスの経験からきたひらめきで3つの事件が関連づけられていく。
調査する相手はスコットランドの上流社会から浮浪者にいたるまで、エジンバラの街のあちこちを刑事たちが調べて歩く。加えて、ギャングの親玉カファティも刑務所から出てきてリーバスをつけ回す。おなじみの女性刑事シボーン・クラークが今回もしぶとい調査で働いている。シボーンをのぞき見までして追いまわす警察本部から来たリンフォード警部っていやなヤツが今回は出てくる。こいつがまあ、ほんまに出世主義のいやなやつでね。
相変わらずリーバスは音楽の話題が豊富なんだけど、わたしはここに出てくるバンドを79年後半から80年前半にずいぶん聴いたので、懐かしいやらうれしいやらだ。
最後のところで、いつもリーバスに苦情ばかり言ってきた上司ファーマーが、警察本部のえらいさんに「今回の件について何か処置をお考えなら、それも結構、待ってますよ」続いて「わたしには失うものがもうないんだから」と言う。後でリーバスに聞かれたファーマーは「きみはわたしに向かって何遍それを言ったことか」って言う。わたしも笑っちゃいました。
事件は解決したわけでなく、最後はリーバスはカファティの罠にはまってしまう。すごい結末。カファティはエジンバラを手中にした。「どれだけ時間がかかってもやるぞ」とリーバスはカファティに言う。次作の展開が楽しみだ。
昨日買い物のついでに朝顔とバジルの苗を買ってきた。去年は花子が死んだショックから花の苗にまでアタマがいかなくて、気がついたときはよそでは朝顔の花が咲いていたのだった。バジルはあわてて探してようやく大きくなったのを手に入れた。よし、今年は大丈夫、紫色の大輪の朝顔が咲くはずだ。蔓を這わす針金も用意した。
去年はいろいろと植木を枯らしてしまったが、今年はトネリコも若葉色のゴムの木も、その他名前を知らない植木たちも元気だ。みんな元気に夏を越えられたらいいな。ベランダで2回冬を越したタイムの茎が老木のようになりながら新しい葉っぱをつけている。
毎月15日発行の「VIC FAN CLUB NEWS」ができあがった。これから紙を束ねる作業をして発送する。今月は半年に1回の「VI」といっしょに送ろうと思うのでたいへんだ。今夜から明日にかけての作業。これがすんだらほんとにホッとできる。ハリにいって体を整えてもらおう。
ミステリ雑誌「ジャーロ」に短編小説が2つ掲載されていたのがおもしろかったので、長編が読みたくなり、文庫本(ハルキ文庫 760円+税)を買ってきた。解説によるとイタリアで爆発的な人気を持っているそうで、1998年にはベストテンのうち7冊まで彼の作品が入っていたという。いまやイタリアの国民作家と言われているそうだ。それがいま翻訳された。イタリア人も音を上げるシチリアの方言で訳者は苦労されたらしい。
シチリアと言われてもピンとこないけど、読み出したら出てくる警察官がアメリカやイギリスなどと違っているのが、まずおかしかった。のんびりしているというか、食事や昼休みが優先しているしね。こんな警官がいるかと思うくらいにとんちんかんな部下もいるしさ。
まず美女の裸の死体が発見されるが、警部自身がが死体を発見したのに、知り合いの女性に警察に発見の電話をしてもらう。その女性の家の2階に高名なバイオリニストが住んでいて、そのバイオリンが事件のもとになる。調査中にモンタルバーノ警部は事件からはずされるが、それでも内緒で調べだすと、部下もついてきて、ストーリーは進んでいく。
気持ちがよいのは成熟した女性たちが美しく書かれていることだ。知っている人、事件で出会った人、それぞれが警部とのやりとりで魅力あふれる姿を見せていて気持ちよい。さすがイタリア人なのかもしれないけれど、うらやましいなあ。それと、食べることが好きな人には特におすすめです。もう1冊出ているから今度梅田へ出たらジュンク堂で買ってこよう。
プールに行きだして10回をこえたら数えるのがややこしくなった。今度は3カ月経つのが楽しみだ。水の中に入ると体に安心感がわいてくるのが不思議。温泉もそうだったろうか? 猫と暮らして以来外泊をしなくなったので、温泉に縁がなくなってしまった。感じがわからないよ。
今日は帰りにビデオ屋へより「サムガール」を返した。これつまらんかったわ。ちょっとビデオ生活が続いたので、今日で打ちきり。本屋で「新潮」6月号を買う。水村美苗さんの「本格小説」連載第6回をバスを待ちながら読み始めた。今日プールで話を交わした人にバスの昼間割引券を教えてもらった。朝10時から夕方4時までの間に乗ると割引されるそうで、2000円払うと2800円分の券がついている。いつも200円を払うか、普通の回数券(3000円で3300円分)なので大助かりだ。
昨日は久しぶりに心斎橋方面に買い物に行った。最近は体操もプールも西の方面に行くので地味生活だから、人混みを歩くのがすごく楽しかった。道でポケットティッシュもたくさんもらってきましたよ。
今日気がついたのだけれど、うちでコピーをとっていると窓から桐の花が見える。ちょっとコピー機を動かしたので、窓から外を見る角度が変わった。道の向こう側のビルとビルの間に細い道があって、片側のビルの隅に桐の木があったのだ。もう少し近ければもっとよいが、贅沢は言わんとこ。
トルーマン・カポーティの原作で美少年が出ているということで、見たくって見たくって探した。それが見かけるたびに貸出中なんですね。ようやく借りてきて見た。エドワード・ファーロングくん、やっぱり美形でした。
1930年代、主人公の少年は母が若くして病気で亡くなり、父が親戚の家に預ける。父は預けた後にすぐ自動車事故で亡くなってしまう。少年は中年の独身姉妹の家で生活することになる。妹がやせ形で現実的で薬局を中心に商売をして町の有力者である。姉のドリーは太って夢をみているような人で、やはり太った女中と台所を居場所にしている。そこで少年はかわいがられて大きくなっていく。薬局で売っている薬は、ドリーが森に出かけて採ってきたハーブや薬草から作っている。少年はいっしょに薬草採集のピクニックに出かけて、大きな木の枝分かれしたところに作られた“木の家”を見つける。丈の長い草に風が吹き、耳をすますとさやかに音が聞こえる。これがグラスハーブである。
なんだかだとあって、妹とケンカになり出て行けと言われた姉に同情して少年と女中、それに近所に住む元判事と友人が一緒に家出して、“木の家”に住むことにする。みんなで森でキャンプして魚を釣ったりして楽しくやるところがとてもよい。ピンクの服を着たドリーに元判事が求婚する。そこへ妹にけしかけられた保安官が出向いてきて争いになる。またなんだかだとあって、姉妹は和解する。妹はそれなりに姉をうらやましいと思っていたのだ。
最後は少年が大人への一歩を踏み出すために都会に出ていくところで終わる。ドリーをやっているのがパイパー・ローリーだったのに驚いた。だって「ハスラー」はLDを買ってから何度見たかしれない。あのパイパーが妖精のような柔らかな人になっていた。そう言えば、という感じで思い出したけど、テレビの「ツイン・ピークス」にも出てたっけ。
脇をシシー・スペイセク、ウォルター・マッソー、ジャック・レモンたちで固めている。鶏をペットにしてどこへも連れて行く保安官もおしゃべりの床屋さんもたのしい。アメリカ南部の田舎町を舞台にした映画はたくさんあるけれど、独特の雰囲気を持った美しい映画に仕上がっているので満足であった。
去年9月9日、阿部薫の命日に阿部薫の思い出を書いた。その後で思いついてヤフーで調べたら、大阪の若い人が「阿部薫」というサイトを開いていた。わたしの「阿部薫の思い出」はそのままホームページの「阿部薫」に転載されている。そんなことで阿部薫を聴きたいという気持ちがわき起こってきたのだけれど、言うばかりでなかなか実行に移せなかった。ようやくtokuma japanから出ている初期の演奏を収録したCD3枚を聴いたばかりである。
3枚とも1971年に録音されたもので、わたしがいままで持っていた後期のCDとは全然違う音で、天王寺のジャズ喫茶マントヒヒなどでナマで聴いていた音と同じような感じでうれしかった。
♯1は10月31日東北大学教養部教室のライヴで、タイトルは「アカシアの雨がやむとき」、バスクラリネットとアルトサックスとハーモニカで、パーカッションの佐藤康和とのデュオである。当時の大学の教室の雰囲気を知っているので、臨場感を自分で付け足して聴いてしまった。
♯2はタイトル「暗い日曜日」、阿部のソロ(アルトサックス、バスクラ)で12月6日一関のジャズ喫茶ベーシーと秋田大学学園祭共用棟でのライヴ。当時有名だったベーシーでの演奏は、この3枚の中でもっともすばらしいものだ。はじめてわたしが京都大学西部講堂で聴いて震え上がった、あの音が甦ってきたような気がした。
♯3はタイトル「風に吹かれて」、阿部のソロで12月4日秋田大学学園祭共用棟でのライヴである。これもアルトサックスとバスクラで演奏しており、そのときの秋田大学の雰囲気にのったような即興演奏である。
3枚に共通してある「アカシアの雨がやむとき」はマントヒヒでも京都のジャズ喫茶でも聴いたものだ。西田佐知子の歌うこの歌は60年安保の歌とも言われていた。「アカシアの雨にうたれてそのまま死んでしまいたい」という歌詞が安保闘争に疲れた若者の心情に訴えたのだろう。「暗い日曜日」はダミアの歌うシャンソンで、第2次大戦前の曲ではないだろうか。当時この歌を聴いた若者の自殺者がたくさん出たと聞いている。両方とももの悲しいメロディを吹いているのが、突然、たちまち駆け上がっていく高音にぞくぞくしてしまう。
しかし、音もだけれど、ついている解説がすごい。1997年に書かれた清水俊彦さんによる「混沌の中の叙情」はとても阿部の本質にせまっていて、これ以上はない解説だと思う。清水さんの解説が客観的であるとすれば、あとの3人の主観的というか、阿部と直接かかわった人たちの文章、これもすごい。べーシーの店主、菅原正二さん、私生活にかかわった大場周二さんと、もう故人の小野好恵さん、この3人の男たちの男気というか、阿部への惚れ込みはハンパでなかった。故に解説も私的で面白くて悲しさにあふれている。と同時に当時1960年代後半から70年代前半の世相や青年たちの行動について知ることができる。
阿部薫は30歳を前にして死んでしまったけれど、残された音がいまになって、またわたしを幸せにしてくれた。
昨日の「温泉へ行かない記」はフィクションでした。勝手に、あたしらどこも行ってへんなあ、という会話から発生したお話ですので、笑ってもらえればうれしいです、ということであります。
とはいっても、昨日はゆっくり起きて、隣人から(新潟の友人からから届いたものを分けていただいた)頂いた納豆、薩摩揚げで朝ごはんを食べた。納豆も薩摩揚げも日常の食べ物がおいしいのがうれしい。デザートには、やはり新潟の笹だんごとチマキを食べた。チマキは糯米ってこんなにおいしいのかと思いましたよ。
その後は阿部薫のCDを聴いて、2時から大阪テレビで「バッドガール」を見た。おにぎりを食べながらというお気楽なことである。カーテンを閉めて、留守電にして、これじゃ、「ほとんど」に書いたとおりやんか、と笑ってしまった。電話もメールもないおだやかな日だった。
今日は一転、メールはたくさんくるし、気忙しい日になった。
連休いうたって、別になんちゅうこともないわが家。昨日遊びに来た知り合いから「おたくら連休というのにどこにも行きはらへんねんなあ」と呆れられた。むむむ、実はお散歩すら行ってえへん。そしたら、あたしのアタマの片隅にまだ残っていたらしいミエ部分が自分勝手にしゃべりだした。「そやそや、あたしら、これから支度して温泉行くとこやねん、有馬温泉に今晩の予約入れてんねん、たった一泊やけどな」。言うてもた。うわーっ、どないしょ。
えらいこっちゃ、昨夜から今日は、カーテンしっかり閉めて、うちは留守です。電話も出えへん。メールもお休み。今日の「ほとんど」は締め切った部屋でひっそりと書いとります。
「VI」27号ができた、と言っても版下までで、これからコピーして折って重ねて、という作業が待っているが、連休の2日間を費やしてデザイン制作をしてくれた杉谷正明さんに感謝、感謝である。今回はもちろんサラ・パレツキーの『ハード・タイム』の感想特集号だ。原稿の整理や文字打ちや校正などで何回も読んだのだけれど、会員それぞれの感想に個性があって、読むたびにわたしは幸福感に満たされた。原稿の熱さにデザインも応えてくれて、とても良い会報ができあがった.。うれしい。
サラ・パレツキーはほんとうに素晴らしい読者を持った作家だとつくづく思う。ヴィクの一挙手一投足に、一喜一憂するファンがいるのだもの。そして、今後の活躍を期待しながらも、体のことを考えてほしい、いまはちょっと休んで欲しいと願う読者たち。
もちろん、会報は会員にのみに渡すもので、読みたければ会員になってもらうしかありません。
信じられへんわ、「太陽がいっぱい」って封切りで見たんやもん。それが1960年のことで、いまから40年も前やなんて…。そんなに前のことやったんか…。そう言えば、見てもほとんど忘れていた。覚えていたのは、アラン・ドロンが舵をとっているところと、マリー・ラフォレが縞の服を着ているところくらいやもんね。そうや、サインの練習を必死でやってるところも覚えてたわ。いや、まあ、今回、ビデオで見てみたら素晴らしい映画やった。
ルネ・クレマンは折り目正しい映画を撮る人で、青年が人殺しに至るまでを、きちんと見ている者に納得させるように描いている。そこらへんがヌーベル・バーグの人たちに批判されたところだろう。
貧乏な青年トムが、どうにかお金を手に入れたいだけの、哀しい描写がせつない。ナポリで遊んでいる息子をアメリカに連れて帰ったら5000ドルその父親が払うという。お金欲しさにやってきて、遊び人の青年にいいように使われてバカにされる。帰ろうとしないその青年に、業を煮やして結局殺してしまってからの、サインの練習や、その他もろもろ、せからしく動き回るトムの姿はまったく貧乏人そのもので、おかしくも、自分を見ているようでもあって、いややねえ。
しかし、まあ、アラン・ドロンのなんと美しいこと。そげた頬、上目遣い、長いまつげ、惚れ惚れしてしもたわ。撮影アンリ・ドカエ、さすがとしか言いようのない美しい画面やった。
友人に貸してあった本が久しぶりにもどってきた。こんな本を持っていること自体忘れていたが、もどってきてよかった。だって、こんな高い本、最近やったら、こおてへんわ(中央公論社 4500円+税)。雑誌「マリ・クレール」に連載されているときに読んでいて、単行本になったときに買ったということは覚えている。
海野弘にはずいぶんお世話になっている。もちろんお会いしたことがあるわけでなく、翻訳書(翻訳者は別で監修者だが「ハリウッド・バビロン」はわたしの最も大切にしている本である)や、アール・ヌーボーに関する本、シャネルについての本など、勉強になったという意味。
1992年にこの本が出たときは、「失われた時を求めて」はもう2回読んだのが昔の話になっていたので、順を追って読んでいくと新鮮だった。写真がたくさん入っているのもありがたい。だいぶ前にみたび「失われた時を求めて」を読もうと決意したんだけど、3冊目で頓挫している。早く読まないと前を忘れてしまいそうだ。この本を読んでもう一度盛り上げようと思う。
ちらちらとめくったら、スカートの長さの解説、インテリアの説明、登場人物についてとさっそく引き込まれた。カバーを取ると深紅の表紙に金文字でかっこいいし、字が大きくて読みやすい。装幀が中條正義、ずっしりと重くてうれしい本だ。
私立探偵ジョン・マーシャル・タナーものの13作目、前作「過去の傷口」の最後は撃たれて倒れるところで終わったので、もうこれでシリーズは終了かと思っていた。それに、あの作品はものすごくよかったから、興奮したまま終わるのもいいか、なんて思おうとしていた。それくらいわたしはスティーヴン・グリーンリーフのファンなのである。
今回は前作の最後に倒れた後の話で、幸運にもすぐに病院に運ばれ、優秀な医者の手術を受けて生還するところからはじまる。その病院でリハビリ中に知り合った若い女性リタとともに励まし合って元気を取り戻す。退院したら会いに行くという約束を果たすために、先に退院したリタに電話すると、母親が出て、彼女は殺されたと言う。リタのために犯人を捜しにタナーは出かける。
そこはイチゴ栽培の農場で、経営者一族は中世の領主のように、労働者を支配していた。その支配を崩そうと運動していたリタを殺したのはだれか。働く人たちはメキシコ人が多く、ひどい生活をしている。アメリカのイチゴがこうして作られているのかわかる。たくさんの農薬を使っているさまもよくわかる。
一方、「過去の傷口」の最後に亡くなった親友の最後をめぐって地方検事局が調べはじめた。検事補のジルにタナーは好意を持つ。リタと同じように、社会悪に対し黙っていられない、最近珍しい人種だと思うからだ。
思いがけない人間が犯人であったことを突き止めてタナーは去る。突き止めた誇らしさよりも悲しみを持ってしまう結末が悲しい。家に帰るとジルから電話があり、部屋にやってきた。二人は結ばれるが、それ以上にタナーが話しあえる相手を持ったことがうれしい。
イチゴがどこでどう栽培されているかは勉強になったけれど、前作に比べて、怪我をしたタナーと同じくちょっと疲れ気味の作品だった。(ハヤカワ・ミステリ 1100円+税)