2001年3月
子どものころは毎年夏になると数回は二色浜あたりへ連れて行ってもらったが、ぜんぜん泳げるようにならなかった。砂浜で寝っ転がっているほうだった。
プールには25年ほど前に泉北の団地に住んでいたころ、泉ヶ丘駅前にあった市営プールに何度か行ったことがある。日曜日の昼下がり歩いて行った。少しは進歩したくて練習したが、2メートルほど先で待っている相棒の手許に行くのがせいいっぱいであった。いくら泳ぐかっこで前に進んでも、息継ぎができないのでそれまでなのである。そんなわけで、たいていはプールサイドでごろごろしていた。スポーツオンチというのか、ダーツをしても羽根が的まで行かないという人なのである。
だからプールへ行くことにしても泳げるようになろうなんて思いもしない。ひたすら歩こうと思うだけである。でも困ったのはプールに入ろうとすれば水着がいる。去年の夏雑談中にどこか行く話が出たとき、「すぎやさん、海なんか行きはれへんのでしょ」とちらりと、わたしのお腹あたりを見て言った人がいた。なにくそと思ってもしかたないから、にこっとして「どこもいけへんよ」と答えたが、まだ覚えていることを思うとかなり気分悪かったんや。
水着はスイミングクラブで売っているとのことで、最初の日に買うつもりだったが、気前のよい隣人が以前ジム通いをしていたころにスペアに買った水着をくださった。まだタッグがついたままの新品で帽子とゴーグルも付けてくれた。ありがたいのはものくれる友である。
お風呂上がりに着てみたら、なんとねえ、似合うんです。高級品だから短所を隠してくれるらしく、お腹の出っ張りもそこそこ抑えてくれてるし、濃いブルーが顔をきれいに見せてくれる。プールに行く日が楽しみになってきた。(^o^)
昨日も寒かったが今日はいちだんと寒い。花冷えって言葉は美しいけど、春になってのこの寒さは残酷だわ。夕方買い物に行くのに、クリーニングに出す冬物の中からカーディガンを探して着た。クリーニングに出すのは来週にしよう。
買い物のついでに土佐稲荷神社を通ったら、夜桜のためのライトアップは明日からということで、ピンクのぼんぼり型のカバーをかけた電球が桜の木にはりめぐらしてあった。境内には明日からの屋台が準備をはじめている。桜の咲き具合は七分咲きといったところかな。この寒さで花が長持ちしそうである。だれもいない神社でひっそりと桜を眺めるのは贅沢な気分だ。
しかしほんまに寒い。明日も寒いのかな。こんな寒さにお花見宴会したら風邪をひくで、とお花見宴会をしたことがないわたしは思うのであった。
スーパー中央の隅に金盞花がいっぱい置いてあった。なんと1束10本で198円であった。家にはまだ先日買ったフリージャがあるのだが、買わないとソンみたいな気になって買ってしまった。
ストーブで暖まった部屋に花をかざってお茶を淹れて、お隣りにいただいたお菓子を食べた。幸せなことである。
プールでウォーキングをしろと言われて久しいが、なかなか腰が上がらなかった。泳げないし、体型が水着に向いてないし、近くにプールがないし、と行かない理由はいくらでもあった。でも、お尻に火がついてきた。いつまでも足の調子がすっきりしない。体操の先生は運動不足で筋肉痛になっていると言う。しかし、運動しようとすると足が痛いというジレンマだから、らちがあかない。
ついにこれしかないと水中ウォーキングをはじめることにした。ちょうど4月から新年度ということか、ジムやスイミングスクールのチラシが今月はよく入っている。それをとっておいて比較検討した。場所はいずれも地下鉄かバスで200円で行けるところだ。東西南北にあるのに近所にないというのが不満だが仕方ない。お金がいちばん安い弁天町のプールを選んで、今日申し込んで来た。4月5日からで、月曜日〜土曜日の朝10時〜お昼の1時まで使えるコース。毎日は無理でもできるだけ行ってみよう。
弁天町っていままで縁がないところで、地下鉄を降りたらわりとがらんとした感じでうろうろしたが、歩き出すと、まだ路地があり長屋があり市場もある古い町のようだ。帰りにレンタルビデオ屋さんも見つけて、しょっちゅうプールに来るのならここで借りたらいいなと思った。
桜が咲いている神社もあり、レンギョウとユキヤナギが咲いている公園もありで、これから帰りに散歩や町の探検も楽しめそうだ。
野球シーズンがはじまった。阪神ファンは5月くらいまでしかシーズンがないから、4月、5月はめいっぱい楽しまなきゃならないのでたいへんだ。しかし、今年はニューヨーク・メッツの新庄くんの活躍を楽しめる。ありがたいことだ。
先週くらいまで、ニュースステーションでもNHKのサンデースポーツでも新庄くんが活躍すると、画面に写っているいるキャスターというんですかね、あの人たちが冷笑するんだよね、不愉快きわまりなし。それでも打ったところを見ようとテレビをつけて待っている純情なファンのわたし。
野球シーズンを盛り上げようと、ビデオ「ラブオブ・ザゲーム」を借りてきた。ケビン・コスナーが40歳の投手になっている。ずっとデトロイト・タイガースの要としてやってきたが、オーナーも老年でチームを売るという。新しいオーナーは大投手は不用だからトレードに出すと言う。返事を保留してニューヨーク・ヤンキースとの試合に出る。タイガースには消化試合だが、ヤンキースはあと2勝で優勝という試合でニューヨーク中が沸き立っている。試合しながらの回想シーンで彼の恋や野球への思いが語られる。痛い腕で最後まで投げ通す姿に離れて行こうとする恋人も涙する。
ロバート・レッドフォード演じる中年の野球選手が活躍した「ナチュラル」を意識したようなところもあって、最後まで引き込まれた。野球の映画ってたいていが期待に応えてくれるよね、好き。しかし、まあ、映画の中でも大リーグの試合はすごいなあ。そこでマイペースでプレーしている新庄くんはすごい。がんばれ新庄くん。
先日チャルカへ行ったときに見つけた本。棚の下段にひっそりと飾ってあって、お店の人が惜しそうに売ってくれた。
20センチ×25センチのちょうどよい大きさ、ハトロン紙のような筋の入った緑色の表紙に野菜の絵が描いてある。開くと半分が本になっており、半分が封筒である。本のほうは野菜の種からはじまって大きくなり収穫するところまでが描いてある。その絵がきれいでかわいくてやさしくて申し分ない。最後のページに封筒に入っているものの説明がある。もちろんフランス語だから読めないが、絵で判断したところによるとゲームのようだ。
封筒には、まず季節毎に4等分して農作業の道具をあしらった絵の台紙が入っている。別に36種類の野菜の絵が描いてあるシールがついている。これをはがして台紙に季節をわけて貼るらしい。それからすごくきれいなカードがある。野菜と果物を6個づつ6種類、計36枚のカードは、色合いといい形といい洗練された美しいものである。台紙はつくったけれど、ゲームをするとカードを傷めてしまいそう。わたしはもう大人だし種と作物の判断はつく。それで、カードはホルダーに入れて保存することにした。
フランスの都会の子どもに、毎日食べる野菜と果物がどう作られているかを教えるために作られた本のようだが、こんな本やゲームで楽しめる子どもたちはしあわせだと思う。
わたしは数ある絵本作家のなかでバーバラ・クーニーがいちばん好き。図書館の洋書で知らないのがあるか探すが、ほとんど日本でも出ているようで、人気のある画家なんだと思う。暖かくて清潔な絵は眠れない夜にページをめくると心がやすまる。
なかでもクーニーの母の子ども時代を描いた「おおきな なみ」がとりわけ好きだ。贅沢に育った少女がオペラを観て歌い手の姿に自分を投影し、絵を描く一生を選択するところがなんとも好き。エミリー・ディキンソンを一少女の目から描いた「エミリー」も好き。わたしはこの絵本でエミリーをわかったような気になっている。たいていの本に猫がいるのもうれしい。
バーバラ・クーニーにはもうひとつ、アメリカの村や山に生きる人々を描いたものがあって、「みずうみにきえた村」はニューイングランドの村が貯水池になる話を描いたもの。年月が経って、父と娘が自分の家が水没した池でボートに乗るシーンには感動する。「にぐるまひいて」も山深い村から荷車をひいて町へ出てきて手作りの品を売り、生活用品を買って帰る村人の生活を四季折々の風景とともに描いている。
昨日買った「満月をまって」もその系統で、ニューヨーク州の深い山の中で暮らし、トネリコなどの木でカゴを編んで暮らしている人々を描いている。馬も荷車もないから満月の日に肩に担いだ棒にカゴを通して歩いて町へいく。そして必要品を買って帰り、また満月の日までカゴを編む暮らしをする人たちがいた。その人たちが編んだカゴはいまもたくさん残っていて、個人の納屋、博物館、アメリカ民芸品コレクションにあるそうだ。失われたものへの哀愁あふれる絵本で子どもにだけ読ますのはもったいない。
バーバラ・クーニーは1917年に生まれて、去年2000年に亡くなった。もう新しい絵本には出会えない。
毎月第4土曜日はヴィク・ファン・クラブの例会日で、昨日24日は新人のOさんとジュンク堂で待ち合わせていっしょに行った。ここのところ例会場所に行く前に梅田のジュンク堂へ寄るのが習慣になってしまった。早めに出て行き「小説JUNE」と「ジャーロ」を買って、絵本売り場をうろつき、去年亡くなったバーバラ・クーニーの最後の絵本「満月をまって」を買って、待ち合わせ場所の外のベンチに座った。暖かい日だけど夕方の冷たい風が吹き出してきて厚着が役にたった。
わたしとOさんはもともとはボランティア仲間である。共通の知り合いのうわさ話をしながらぶらぶら歩いていった。参加者は4人だったけれど、春らしく明るい話題が多く笑いが絶えなかった。「朝日のようにさわやかに」の人がいるからよけいである。
VFCは今年の秋に10周年を迎える。それで10月の例会日は大パーティをしようという企画が出ていて、例会の度にボチボチとその日のことを話し合っている。例会の前に関西圏以外の人を大阪案内するという案もある。お好み焼きを食べてアメ村や御堂筋なんか散歩するというお気楽な企画で盛り上がった。
「花形文化通信」に連載中は次回が待ち遠しいくらいに愛読していたが、こうして1冊の本にまとまると、ちょっとしつこくて一度に読むと胸につかえる。そばに置いてちょこちょこ読むのがいいのだろうが、気分がせからしくてダダダーッと読んでしまった。もっとも他の用事をおいて読んだのだから、やっぱり好きなんだよね、野ばらちゃんの毒舌が。
「乙女と性欲」では、乙女がホモセクシュアルが大好きなのはなぜかというと、乙女の肉体が自ら関与し得ないエロスに代償を求める、と書いている。あたしの周りのJUNE乙女を考えると確かにそうだ。【遙かに肉体を逸脱した超肉体の結晶。逃避的少女趣味と罵られたって反省いたしません。これが乙女の実存主義なのですから。】はい、はい。
たくさんの自称乙女が自分のこととして読んでいるだろうと思うといやになるが、自分もたくさんのうちの一人とは絶対認めないのも乙女なのである。(この本に書いてあることは、あたしだけしかわからないわ。)
中でもバーネットの「小公女」について書いている「公女様は意地悪がお好き」という一文ほど乙女を言い表している言葉はないだろう。大金持ちの令嬢から一文無しに転落したセーラは「私が公女様だったら」という考えで逆境を乗り切る。けなげとは言い難い、けっこう根性ワル、そこが愛すべき乙女らしさ、と野ばらは言う。自分のことしか考えないからこそ、乙女、と言われると、自己中心としょっちゅう悪口言われてるあたしには乙女資格大ありだー。最後の一文はまたまた効いている。【僕は三度のごはんより、人の悪口が大好きです。】あたしもだー。
ジャン・ルノアールの映画「ゲームの規則」はすごい映画である。社交界の人たちのゲームの規則、すなわち、恋も生活も雅な遊びの世界の中にある世界。その中で真実の恋をする男性はゲームの規則を破ったのだ。何度見てもせつない気持ちになってしまう。
いろいろな世界でゲームの規則はあって、たいていの人はその世界を疑わずに生きているのだろう。わたしがゲームの規則があることを最初に気がついたのは子どものとき、どういう本なのか覚えていないがこんな話があった。
AとBの2人の少女が日曜日に待ち合わせる。Aが約束を破って待ち合わせに来なかった。翌日Aは「お父さんが病気で行けなかったの」と弁解する。で、次の日曜日に待ち合わせが延期される。ところが今度はBが来ない。翌日AはBに「お父さんがが病気だったのね」と言う。そして2人は和解する。この話はどういう意図で作られたのかよくわからない。識者の道徳的な結論があったはずなのだが。ただ、わたしはこの話を読んで、約束を破らない人であろうと思い、破っても嘘の弁解はしないでおこうと思った。でも相手が破ったらどうしたらいいのかには大いに迷ってしまった。
大人になってからは、怒りっぽくてつき合いにくいと言われながら、約束を破った人とは次回はないということでやってきた。わたしはいまだに、ゲームの規則を守れない野暮な人である。
最近めざましくおしゃれなお店が増えている北堀江にガーデンズ・ガーデンというお店が開店した。先月“オーガニック的生活を”という呼びかけのあるかわいいチラシが新聞折り込みできたので、楽しみにしたいたが、今日が開店日なので、四つ橋の郵便局へ行ったついでに行ってみた。
同じような有機野菜、無農薬食品を扱っているオレンジハウスやキャロットみたいな店だが、場所が近い上に配達してくれるのが、足の悪い身にはありがたい。葉つきのタマネギ、おから、薄揚げ、お菓子、ちょうど切らしていたメープルシロップその他を買って配達を頼んだ。実物を見て買って配達してもらえるのがよい。
店を出ていつも通らない道に出たら、またまた可愛らしいお店があった。アートハウスという雑貨屋さん。せまい店内はぎっしりと可愛らしいものばかり。濃いピンクの皮のブレスレット、ネコの絵のバッジ、めちゃ可愛い絵はがき数枚を瞬く間に選んだ。あーあ、こんなお店知らないほうがよかった、中毒になりそう。
店を出て少し北へ行くとチャルカにつながる道になる。ちょっと寄ってバナナケーキとコーヒーを頼んで、郵便局の次に寄った本屋で買った嶽本野ばら「それいぬ」を読みだした。いつもお茶がすむと雑貨のコーナーの点検が楽しい。今日はスタッフがフランスで仕入れてきたという絵本がわたしを誘った。本の半分は封筒になっていて、中に入っている野菜のカードで遊べるようになっている。この野菜の絵が楽しくってね。どうしても欲しくなり買ってしまった。その他なんの役にも立ちそうにないハトロン紙の袋、布袋なんかも買った。
近ごろ部屋にこもっていることが多く無駄遣いをしない生活だったが、その分を2時間半の外出でバタバタと使ってしまった。明日からはまた倹約生活にもどろう。
2台目のビデオ機がつぶれてからも、1台目のビデオ機は健在で何年も使ってきた。2・3年前から録画機能等が使えなくなっても、再生ができればいいやと使いたおしてきた。
それが最近ビデオを見ようとすると、うまく動くときもあるが、動かないときがちょいちょいあるようになった。だからといって新しいのを買うという気もなかったのだが、昨日は電気店のチラシを見ていて、あまりの安さに驚いて買ってきてしまった。新型の5倍モード(あんまり関係なさそうだけど)も録れるのがなんと15,540円だった。時計もちゃんと時報に合わせるのでいつも正確なんだって。
さっそくレンタル屋さんで「エリン・ブロコビッチ」を借りてきた。これはわたしは映画館で見たのだが、相棒が見ていないので借りてきた。こころなしか昨日までより画面もきれいな感じだし音も良いようだ。「ダーマ&グレッグ」のダーマのお母さんをしている人が公害被害者の役で出ているのがわかった。それから途中から協力していく弁護士の役をピーター・コヨーテがやっている。上品なやり手の弁護士役がぴったり。「これパヴェーゼやんか」と相棒が言ったのでよく見たらほんまやった。イタリアの作家パヴェーゼを描いた映画で主役をしていた。神経質な作家の姿がものすごくよかったのを思いだした。いい役者だ。元気で働いてはるんやなあとうれしかった。
この間読んだ「殺しの四重奏」も分厚かったが、それを上回る28ミリもある文庫本(集英社文庫 952円+税)である。この長さでサイコ・スリラーならたまらんなあと思ったが、今回は35年前にイギリスの寒村で起こった少女失踪事件と現在のつながりで、じっくりとイギリス警察の捜査、裁判を書いていておもしろかった。
第1章は、35年前に1人の地主がなにもかも所有している10軒ほどの農家でなりたっている寒村スカデールから地主の義理の娘アリソンが姿を消したところからはじまる。若い大学出の警部ジャック・ベネットが捜査を続けるが証拠の衣服や銃が出てきても少女(その死体も)は現れず、結局死体無き殺人事件であると確信する。少女の義父であるホーキンはアリスンを強姦しその様子を写真を撮っていた。証拠を探していたベネット警部は写真を手に入れ逮捕に踏み切る。死体無き殺人事件の裁判は警察の勝利となりホーキンは死刑になる。
35年後の現在、ベネット警部は退職しているが、その事件についてジャーナリストに話すことをずっと拒んできた。しかし、いまその話を本にしようとしているキャサリンに、息子ジョンの斡旋もあって話すことを決意する。キャサリンが警部や事件の関係者から話を聞いていくのが物語の第2章になる。
キャサリンは関係者から話を聞こうと当時この村で暮らしていた人達や近親者を訪ねるのだが、ジャックの息子の恋人ヘレンの姉はスカデールに住んでいるという。これから親戚になるその人を訪ねた元警部はその人の顔を見て心臓発作を起こす。なにをその顔に見たのだろうか? キャサリンは調べはじめる。
若いベネット警部をちょっと引き回し加減のトミー・クラフ巡査部長が感じよく、2人で確信を持ってやった逮捕でありながら、なにか違和感を持ち続けているところ、村民のなにか隠している感じが、なにかあるなと思わせる。村全体を遺産で受け継いで、中年になってから村に住むことになった地主が幼児虐待者であったという悲劇的状況の中で村民の生き方が切なく浮かび上がる。ホーキンが死刑にされて事件が終わったのではなく、それからの村民がどうして生きていったか、事件で傷ついた人たちについて思いを巡らさせられる。
昨日、一昨日は土・日というのに一回も外に出なかった。買い物は連れ合いが行ってくれたし、ビデオも借りてきてくれた。わたしは外出好きだが、部屋にこもっているのも好きなので、2日くらい外に出なくても平気なのである。足の調子もイマイチだし、外には花粉が舞っているしね。せっせと読書に励んでました。夜はビデオでようやく「ER」の(5)を見終わった。長いこと途切れていたくせに、借りてくるとたちまち2本見てしまったもんね。
今日はあまりの日差しの快さに誘われて買い物がてらに出かけてきた。桜の名所の土佐稲荷神社まで行くと桜の木に電気のコードを張り巡らす工事中であった。もう花見の用意かと木をよく見るとつぼみがふくらんでいる。あと10日もすれば花見なんだ。
スーパーコーヨーに行くと春らしい野菜がいっぱい入っている。蕗を3束(茎は土佐煮、葉っぱはちりめんじゃこと炊く)と山ウド(これは酢の物やね)を1本買った。思い出した、明後日来るポラン広場の宅配には若ゴボウを頼んであるんだった。
帰ったら隣人が九州のお土産を持ってきてくれた。長崎の新じゃが、福岡の甘夏みかんとライム、それにイカの塩から等々、よっしゃーとばかり、ほくほくして晩ご飯の用意にとりかかった。
3月になると絵はがきを選ぶとき、お雛様柄を選ぶことが多い。最近はメールが主になっているけど、ちょっとはがきにしようと思うとき、お雛様の絵が入っているものにする。3月3日をすぎたら、「六日のあやめ、十日の菊」だと思われへんかと気になるのだけれど、むしろ雛祭りは一月遅れのほうが季節に合うと思っているので、3月中はたいてい鳩居堂の雛人形はがきを使う。
ずっと昔だけど、若い友人が金沢大学に入学したので連れ合いと遊びに行ったことがある。彼のアパートに2月の終わりから3月はじめまで滞在して遊ばせてもらった。香林坊のジャズ喫茶がよかったのを覚えている。最高だったのは、兼六公園の中にある展示館で加賀百万国の前田家のお姫様の雛道具を見たこと。あの細かい細工の素晴らしい雛と道具類を見たら、そこそこのお雛様なんかいらんという気になるよ。
私は自分のお雛様を持ったことがなかったので、実はちっちゃいセットでも欲しいと思っていたのよね。木彫りとか貝に絵を描いたのとかでもいいかと思っていた。そんな話をしたら帰ってから連れ合いが紙で雛人形を作ってくれた。私のはじめて所有したお雛様は黒い衣装で前衛的だったわ。あれどこへいっちゃったんだろう。
この本は先だって古本屋で買ったんだけど、だいぶ前に朝日新聞に連載されていたもので、そのときも愛読していたが、こうして1冊の本になっているとすごく便利だ。ちょっとあの人とかあの本とかというときに読むと、わたしが知りたいくらいのことならすぐわかる。ヤマトタケルノミコトから百人一首、芭蕉、万葉集と田辺聖子の広い興味と教養がうかがわれる。それ以上に全体を流れる善意というか、さまざまな人間を肯定的に捉えているところが気持ちよい。
「蜻蛉日記」の兼家の魅力について語る田辺さんはほんとに気持ちが良さそう。また平知盛の最後を語って「私はこの男が好きなのです」と言い切っているのも貫禄がある。わたしもそういうふうに言える女になりたい、なんちゃって…。
しかし、田辺聖子の本領は女性の魅力を語るところにある。恋多き女の代表である和泉式部について、忍ぶ恋の代表式子内親王について、残された女の代表建礼門院右京太夫について、物語を読む女のさきがけ「更科日記」の少女について、格調高くなよやかに語っているのを読めるのもうれしいことである。
若山牧水の歌は引用されているものはほとんど知っている。上の五文字を言われれば、あとはすらすらと出てくるのを発見していい気持ちになった。わたしにとって若山牧水の歌は恋へのあこがれであった。ほんとに恋したときは、こんなんじゃなかったよ(笑)。恋を恋して恋の歌を何度も読んだ幼き日であった。こんなことも思い出させてくれた。
松岡正剛「知の編集工学」を朝日文庫の新刊で買った(640円+税)。この本は数年前にハードカバーを図書館で借りて読んだことがあったが、ホームページを持って以来“編集”という言葉に理解が深まった気がするので今回はとてもおもしろかった。
表紙に明るく笑っている松岡氏の顔がある。眼鏡をかけていて、もうひとつ首にぶらさげている眼鏡を手にしている。これは老眼鏡かな。
松岡正剛という名前は、遙か昔「遊」の読者だったから畏敬という感じで仰ぎ見ていた(斜めからだけど)から、彼を呼んで話してもらうという企画を聞いたときはうれしかったものだ。それはロックマガジン社が企画した大イベントで1979年の暮れ阿倍野文化センター(だったと思う)で行われた。そうそうたるパンクロッカーの演奏の間に松岡氏が話されたのだが、その頃はここにある写真のように笑顔を見せるなんてとんでもない神秘の人であった。
話の趣旨は全然覚えていないのだが、話の中に、70年代前半に大阪で行われた玉水町煙(たまみずちょう けむり)の舞台の話をされたことを覚えている。すごくていねいにその公演について話されたが、ちょっと違うところがあった。というのは、わたしはその煙さんを直接知っていて、その舞台を見たからだ。松岡さんは知人から聞いた話をされたのだが、わたしはその話からなにを語ろうとされたかは覚えていない。わたしの知ってることを間違って話されたということが話のネタとして重要だったわけです(笑)。
そのイベントは丸一日行われた。わが家は前夜と当日の夜、頼まれてミュージシャンをうちにお泊めした。あがた森魚さん以外は若いパンクロッカーたちである。このアパートに引っ越してきたばかりのときで、あらゆる寝具を出し寝袋を借りてきて10人くらいが雑魚寝した。朝ご飯もややこしかったが、みんな静かな人ばかりで楽しかった。名前を忘れてしまったが西部講堂で聴いたことのある過激な男女2人組にビビッていたら、男性は普段は百貨店の配送をしているという常識人であった。女性のほうもロックマガジン社に出入りしている子たちよりもずっとオトナだった。あれから20年…、松岡氏、あがた氏以外のみんなはどんな人生を送っているのだろう。
暖かいってありがたい。今日は体操に行ってきた。2月からまた3回続けて休んでしまって、電話はかけてくださるわ、心配してくださるわで申し訳なかった。それも先週は出かけたのに、途中のカフェでお茶してそのまま帰ってしまったのだ。まるで不登校児である。というのも治りかけていた足の痛みが場所をかえて再発したのだ。痛いところをかばって歩いていたせいで、無理がかかったらしいむこうずねのあたりが筋肉痛をおこしている。ハリに行くと体が歪んでいるから腰に負担がかかり、そのせいで足にきていると言われた。まあ、長年の疲れが一挙に出ているのでしょう。(減量しなくっちゃ!)
帰りにおいしくヘルシーなパン屋さん「くるみ」に行ってお昼のサンドイッチやスコーンを買った。去年の夏はじめて行って以来、毎週ここでパンを買っている。店主の女性とよく話すようになり、一緒に働いているお嬢さんと先週メール友だちになった。このページも読んでくれて「楽しい」とメールをくださった。好きなことを書いているだけだけど、若い人に楽しいと言ってもらったのがうれしい。
月に一度の「VFCニュース」を昨日遅くまでかかって仕上げた。今日は発送作業をした。なにをしても暖かいとはかどるような気がする。夕方ポストに入れに行き少し散歩した。急に近所の椿が咲きだしたようである。沈丁花も馬酔木も咲いている。もうじき桜が咲く。
週末ボランティア(週ボラ)のYさんに電話したらこんな話をしてくれた。地域に根ざした活動を続け、また震災ボランティア活動もしている田辺寄席のOさんとの会話で、Yさんが今後も週ボラが震災被災者への訪問活動を継続していくことを話して、「継続は力なりと言いますから」と言ったら、Oさんは「継続して行くには力がいるぞ」って言いはったそうだ。まさにそのとおりだと思う。
ささやかながら、わがVFCもすでに発足以来9年半になろうとしている。よく継続してきたと言ってもいい年月よね。いま「継続が力」になっているのかはわからないけど(多分なっているのでしょう)、「継続するのに力」を要したことはたしかだ。けど、わたしの場合、「力」と言うよりも「好奇心」と言ったほうがいいかもしれないな。あくなき好奇心こそわたしの原動力になっている。たまにそれでしょうもない目に会うことがあるけれど、なにもないよりずっといいわ。
近くの長堀通りがきれいに整備されて、一昨年、去年と曼珠沙華が咲いた土と不法ゴミの山もなくなってしまった。雑草が目につかない、ご清潔な明るい道で、その上自動車からの見晴らしのためか、街路樹もやけに少なくなった。まあ、街路樹の側に汚い自転車が不法駐輪してあるよりなにもないほうがすっきりしていいや、とも思うのである。
でも雑草が少なくなりました。今日は安全地帯を眺めながらつくづく思ったのだが、ここにはいまごろ草が萌え萌えのはずなのだ。公園もきれいに整備されているしね。図書館の側の道ばたに、ハコベとペンペン草が生えていたのでほっとした。日だまりになっているので、この寒さでも元気そう。雀のお宿の銀杏があるのもここで、今年も元気にちゅんちゅんとたくさんの雀がしゃべっている。
この間、ほうれん草の束を開いたらハコベが数本ひょこひょこと入っていてね。小さいコップに挿しておいたら小さな白い花が咲きだした。ほうれん草が持ってきた春だとうれしかった。
「あしながおじさん」は、わたしを手紙好きにし、メール中毒にした元凶である。小学生のときにいちばんよく読んだ本の1冊で、わたしの身にはあり得ない話とわかっていながら、夢中になって読んだ。“追伸”をP.S.とすることもこの本から学んだ。主人公が学校で学んでいた詩がエミリ・ディキンソンのものであったのは、いま読んでの収穫である。
孤児院の少女ジューディ・アボットは「ゆううつな水曜日」という作文が評議員の目に留まり、大学に行かせてもらうことになる。その評議員は名乗らず、自分の秘書宛に毎月手紙を書くのをただ一つの条件にする。その経緯以外は手紙文で成り立っている。大学の寮で知り合った金持ちの令嬢のおじさんが実はその評議員で、お定まりの恋愛に発展、ちょっと波紋があったりしてハッピーエンドなんだけどね。
長いこと手にしていなかった本を10年ほど前に買ってみた。そのときはこんな内容だったかとがっかりした。子ども時代に夢中になった本をあとから読んで、がっかりしたのははじめてである。吉屋信子の少女小説だって、川端康成の「乙女の港」だって、それなりのなつかしさを与えてくれた。それでほったらかしてあったのだが、今回読んだらおもしろかった。全体に流れる選民意識みないなのが当時気にさわったみたいね。
だが、いまはそんなことはさておいて、いま存在するわたしの素を作った小説だと思う。わたしの手紙なりメールって、ジーン・ウェブスターの手のひらにいまだに乗っかっているみたいなんだもん。
わたしが生まれてはじめてジャズコンサートに行ったのは「アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズ」だった。「ジャズ名門レーベルのすべて」というカタログで調べたら、それは1961年のことで、たしかお正月が過ぎて間もないころ、フェスティバルホールだった。わたしは売り出し日にチケットを買いに行ったので、前から10番目くらいの真ん中のとてもよい席に座っていた。
ウェイン・ショーター、リー・モーガンが若武者という感じで、ドラムを前にしたアート・ブレイキーがなんともかっこよくて、「モーニン」なんてもう、ファンキー! って感じで、“しびれる”って経験の最初だったのではないかな。
途中、休憩時間になったが興奮したまま座っていると、関係者らしき人が話しかけてきた。テープをくれて「これをいいところがきたら投げてください」と言う。そんなに目立っていたのかとびっくりした。でもそのころはまだ幼くて恥ずかしがりで、受け取ったもののよう投げずに、そっと椅子の下に置いてきてしまった。残念なことをしたものだ。もっともわたしの腕力では舞台までとどかなかったかもしれないので、それでよかったのかもしれない。
その熱狂を持って帰ったわたしはたった1枚のレコードをすり切れるまで聴くという経験をした。その後は貧乏ぐらしが続きレコードを買う余裕がなかったし、好みもどんどんニュージャズになったいったので、改まって聴くのはそれ以来のことである。
このコンサート以来何十回もコンサートに行っているけれど、初々しく感動したこの日のことは忘れられない。「チュニジアの夜」だの「ブルースマーチ」だのいまだに口ずさむもんね。いま聴くとファンキー! と思ったものが静かな感じがして不思議なものである。
今日はこの冬いちばんの雪が降った。昨日はちらついた程度だが、今日はかなり本格的。大阪で雪が降っていると言っても、このへんは滅多に降らないからうれしくてちょっと歩いてきた。水分の多いぼってりとした雪だが、それでも雪は雪だ。空き地や街路樹の足下に植えてある灌木の上にうっすらと雪が積もっている。にこにこしながら歩いた。
年齢だけでコントレーラスさんと言ってしまって申し訳ないが、わがVFCには2人のコントレーラスさんがいる。ミステリーページに書いている岡田春生さんは80歳代半ば、エッセイページやサラ・パレツキーページに書いている東田正義さんは70歳代半ばである。コントレーラスさんは労働者階級出身だが、こちらの2人は知識階級の人でコントレーラスさんのようにしゃべらなくて、手紙で話してくださる。
東田さんはエスペランチストである。水村美苗さんの作品のファンであることがわたしと共通で、水村さんからいただいたハガキを見せてくださったり、新しい作品のことを教えてくださったりとありがたい。
今日は岡田さんから手紙がとどいた。「大学祭の夜」をコピーして送ったのを読んで、昔ワセダの学生だったころ読んだのを突然思い出したそうだ。「ああ、それから60余年、人生の終点でまた会おうとは……」と書いてくださった。
※おわかりでしょうが、コントレーラスさんとはサラ・パレツキーの作品の登場人物で、ヴィクの階下に住んでいて、犬のペピーとミッチの世話をいっしょにしている仲です。おしゃべりで世話好きで正義感あふれるミスタ・コントレーラスはシリーズ中の人気者です。
昨日は夜なべをして「大学祭の夜」のコピー仕事をみんな片づけてしまった。もうこの本のコピーはおしまいにする。最後の包みを郵便局に持っていったらほっとした。
今日はものすごく寒い。もう飽きているけどしょうがない、冬のコートとセーターを着て、午後美容院へ行き、髪を染め短くカットしてもらってすっきりした。お店の外には雪が舞っている。風がゴミを吹き飛ばしている。髪を切ったばかりの首筋が寒い。
マフラーを巻いて難波へ出て、今朝新聞広告で見た水村美苗さんの「本格小説」第4回が載っている「新潮」とヴァル・マクダーミドの「処刑の方程式」を買った。
それから高島屋の食料品売場へ行き、久しぶりに百貨店で買い物をした。買ったものは京都の薄揚げとお味噌、鳴門の糸ワカメ、鮭の切り身、ジャスミン茶。あとはうろうろと売場を見学散歩。和菓子やケーキに目がいったけれど、ガマンした。イカナゴの釘煮がもう出ている。魚売場に1メートルほどあるマグロが1匹横たわっていたがこれから解体して売るのだろうか。高いだろうな。
帰ろうと思ったが「本格小説」が気になって近鉄ビルの喫茶店に座り込み全部読んでしまった。今回は軽井沢の山荘にいた女中のフミコさんの生涯が語られる。おもしろい。まだ来月に続く。すごい大作になりそうで楽しみだ。
今週いっぱい寒いらしいし、用事もたくさんあるが、今日の半日が楽しかったのでまたがんばれそう。
1988年文化出版局から出ている本で、その後どこかの文庫にもなっていたように思う。季節が変わるとき、特に春になると引っぱり出してきて読む。写真がきれいでイラストがおしゃれで平野甲賀氏の装幀がよくて、ページをめくっているだけでも楽しい。鶴田さんの本はいろいろ出ているけど、これがいちばんすっきりしていて好き。
春から冬まで季節毎に食べ物を主にしたエッセイが並んでいて、どこを開いてもなにがしかの知識が得られるし、料理も覚えられる。ベジタリアンだけど卵は食べはる、もちろん放し飼いの鶏が産んだ卵である。「竹の皮のおしゃぶり」というところでは、わたしが子どものとき母親が作ってくれた、竹の皮に梅干しを包んだのを思い出させてくれた。竹の子の皮をよく洗い裏返して真ん中よりやや下に梅干しを置いて、皮を半分に折って両脇を口の幅に折り込む。これをしゃぶるのだが、おいしくはないけどおもしろかった。今年は忘れないでやってみよう。
暖かい文章のあいだに「奥さんと呼ばないで 結婚・私たちの場合」「生活をつくるとは 夫は主夫」のようなきりっとした生き方を書いているところもある。乳がんの自己検診を教えているページもある。
こうして自分の生活を文章化したり写真に撮ったりするのは鼻持ちならない気がするときもあるのだけれど、ここまで楽しい本をつくるってなかなかできるものじゃあないわ。
ある晴れた明るい月の夜、ベランダへ用事で出たとき、月と惑星が並んでいるのが見事なので見とれてしまった。そして、ちょっと横に目を凝らしたら、はっきりとはしないがオリオンがあった、シリウスははっきりとあった。この冬初めてである。ベランダからは西と南北しか見えない。オリオンはそのとき西の空にあった。
夜遊びをよくしているころは、帰り道立ち止まって空を仰ぐという習慣があったが、最近はたいてい家にいるので空を見るのはベランダに出たときだけだし、月はともかく、星のことなんかころっと忘れている。地下鉄の駅が側にできて歩く距離が減ったこともある。
街っ子なので星というものを意識したのを思い出すとプラネタリウムなんだよね。子どものときプラネタリウムを何度か見て星や星座を美しいと思った。いまだにプラネタリウム大好きです。それ以外には月は覚えているけど、星に注意をしたことがなかったような。
山登りをするようになってから星と菫の人になった。20歳ごろの夏、土曜日の夜をしばしば過ごした六甲や比良の山から見た星は美しかった。また北アルプス、八ヶ岳も空が近くてきらきらと美しかった。
震災ボランティアで、神戸といってもずっと西北の、岡山に近い仮設住宅に行ったとき、夕暮れてきて星がすごく近くに見えたときは感激した。側にいた人たちに見るように言ったけど、ほとんどいなされてしまったっけ。
ああ、それなのに、今年の冬は先日までオリオンもシリウスも見ずに過ごしたのだ。
昨日は朝になっても昼になっても夜もすごい風だった。その風が花粉もいっぱい運んできたらしく、ベランダに出ただけでクシャミと鼻水と目のかゆみになった。
今朝方はずいぶん冷え込んだがお昼になったら暖かくなった。よく日が射して植木が喜んでいる。昨夜台所を片づけていて、流しの引き出しを開けたらゴキブリの子どもが遊んでいた。えっ! もうそんな! とびっくり仰天して、可哀想だがつかまえて2匹殺した。あわててゴキブリホイホイを仕掛けましたよ。今日見たら1匹捕まっていた。考えたら今日は啓蟄ではありませんか。暦というものは自然と合っているものだとつくづく感心した。
ところで、昨日の朝日新聞の協和発酵の広告いややったなあ。花粉症の女性の大きい顔写真なんやけど、こういうのを載せるのは健常者の発想やと思う。当事者たる花粉症のわたしは気分が悪くてなにを売ろうとしているか読む気がせえへんかったよ。
「大学祭の夜」のコピーは半分くらいすんだ、やれやれ。しんどかったが喜んでもらえると思えばやってよかった。だが、まだ進行形、あと一踏ん張りしなくちゃ。それにしてもこのコピー枚数とトナーの減り方にはゼロックスがおどろくぜ、大企業並です、なんて(笑)。申込みはもう締めたので、注文分だけすればいいのでやれやれだ。こんなことをしているうちに東京創元社から新訳が出たりして(笑)。
昨夜から今朝にかけて雨風がひどかったらしい。朝起きてベランダへ出たらずいぶん降りこんだようで、植木鉢のお皿が水でいっぱいだった。昨夜は「ダーマ&グレッグ」を見てからメールを読んで、睡眠薬がわりの「秘密の花園」の好きな一節を読んで、どっと眠ってしまい朝まで目が覚めなかった。ちょっとした風の音でも目が覚めるほうなのに。メールソフトをEudora4.3に切り替えたので、使い方を会得するのに神経を使ったせいかな。メールが着くと郵便屋さんが走ってくるのが(イラストがでるだけだけど)うれしい。それに他のことをしていてもメールが入ると知らせてくれるように設定してもらった。このお知らせ音もなかなかよい。
今日は日曜なので朝目が覚めてからまた一眠り惰眠をむさぼった。この惰眠のおかげでひどい病気にならずにすんでいるというのが、わたしの勝手な言い分である。
相棒がデジタルカメラ一式を新調しに日本橋のソフマップに行くというので、お昼ご飯に高島屋の地下の蓬莱でシュウマイと豚まんを買ってきてもらった。その間は昼間からお風呂に入り、ついでに風呂とトイレの掃除をした。
夕方ひどい風の中をスーパー中央まで行き、夕食のおかずのお刺身とアネモネを買ってきた。アネモネは今月の表紙用に新しいデジカメで撮ってもらうため。写真は撮ったけどまだ表紙にはなっていない。もうしばらくお待ちを…。今夜も強い風が吹いている。
本屋でさんざんファッション誌を立ち読みしたあげく、やっぱり「ELLE」を買った。続けて買うと飽きてくるが、2・3カ月おくと新鮮に読める。雑誌が好きでファッション誌だけでも毎月3誌買っていたこともあるのだが、最近そんなに買いたい雑誌がない。
さて「ELLE」4月号だが、最近映画雑誌を買わないので、映画の記事が多いのがありがたい。なかでもいま盛りの女優がメイクアップアーティストの手により、昔のスターの役柄に扮している写真がよかった。ジュリア・ロバーツが「ドクトル・ジバコ」のジュリー・クリスティに、ヒラリー・スワンクが「恐竜100万年」のラクエル・ウェルチに、ウィノナ・ライダーが「熱いトタン屋根の猫」のエリザベス・テイラーに、グウィネス・パルトロウが「俺たちに明日はない」のフェイ・ダナウェイに、「アリー・マイ・ラブ」のカリスタ・フロックハートが「パリの恋人」のオードリー・ヘップバーンに扮している。それぞれよく似ていて、対象に入れ込んでいる女優魂に感心する。
扮している役に対してそれぞれコメントがあるのだが、グウィネス・パルトロウは【(前略)しかし、それでも、悪女はいつも心に訴えかけるものを持っているのです。周囲を見ていると気づくように、男社会で主張をもって生き抜こうとする女性たちは、私たちを引きつけます。そして、こうしたフェミニズムの先駆者たちは、しばしば法の向こう側を突っ走っているのです。】と語っている。
グウィネス・パルトロウをはじめて見た「セブン」では刑事役のブラッド・ピットの妻の役で、連続猟奇殺人の犯人に殺されてしまう。その予感を感じさせる演技がとてもよかったので、ある会合でそう言ったら、「あんな貧乏くさい女」と一蹴されてしまった。実生活でブラピの恋人になったということで嫉妬しているせいもあったかもしれないけれど、地味な役柄だと地味なダサイ女と思い込むバカな映画ファンがいるものである。その後も「セブン」の話が出たときに「あのダサイ女…ごめんなさい、すぎやさんあの人お好きでしたよね」だってさ。その会を辞めてしまったのでもう会うことはないが、あの人グウィネス・パルトロウのその後の活躍をどう思っているかしら。
先日朝の連続テレビ小説「オードリー」を見ていたら、椿屋の元女主人が現女主人のオードリーに客室の床の間の掛け軸を早くかけ直せと言っていた。桜が咲いているときに桜の掛け軸ではもうだめで、掛け軸というものは季節を先取りするものだそうだ。
そうだよね。わたしの持っている桜のスカーフ、黒地いっぱいに細かい白とピンクの桜が散っている。いまごろ春を感じたころにするスカーフだ。といっても着る物がセーターしかないのでほとんど出番がない。KENZOで目玉が飛び出るほど高かったけれど、しないでもときどき出して眺めるだけで満足している。これも一点豪華主義の結果である。
スカーフとマフラーが好きでわりと買うほうだが、最近は懐具合が淋しくて在庫が増えない。でもいまあるものを広げて見るだけでもけっこう愉しめるので安上がりの人である。グレーに黒のバラ模様、明るいチューリップ柄、薄いピンクがなぜか3枚、渋い色の縞柄、藍染めのシルクは地味だけど高かったなあ。それぞれ買ったときのときめきを思い出す。
でもスカーフさりげなくするってむずかしい。いかにもって感じでしている人を見るとダサーって思うよね。
出かけたとき花屋の前がすごく華やかなので立ち止まった。部屋も春らしくしたいなと思ってなにか買おうと思った。たいてい今ごろはフリージャか水仙かマーガレットか菜の花を束で買う。フリージャと水仙は香りがいい、マーガレット、菜の花はもちがいいという理由だが、春という感じがする花だと思う。しかし今日はアネモネにした。赤、紫、白、ピンクの濃淡などが束になって400円、花弁が広がっていてすぐ散りそうだが、すごくきれいなので今日だけでもいいと思った。春の花といっても妖艶な色を今年は気に入ってしまうみたいだ。妖艶な着物が似合うわけでもないので、まあ花ぐらいは華やかでもいいだろう。紫もピンクも嘘みたいにきれいな色である。
あっ、そうそう、今日は歩いていてよその家の前で乙女椿が咲きかけているのを見た。
写真:アネモネの花