“ジェイムズ・ボールドウィン抄”と副題がついている、スーザン・レイシーという女性が1989年に制作総指揮した映画。わたしはだいぶん前に見て内容は切れ切れしか覚えていないのだが、見に行ったときにあせったことだけは鮮明な記憶がある、情けない。
誰かの手からまわってきて「こんな映画の券があるけど行けへん?」とわたしの手にわたった招待券には「ハーレム135番地」横にはジェイムズ・ボールドウィンという名前があった。愛してやまない「もう一つの国」を書いた人。これはなにがあっても行こうと思った。場所は中之島の大阪府立文化センター(こんな名前だった)の1室だという。中之島は近いけれど、わたしはこういう公的な場所を利用したことがない。いまだにドーンセンターとかクレオ○○だってたいして知らないくらいだ。図書館ですらつい数年前までほとんど利用したことがなかった。なんでも自前主義者だった。
そんなことで電話で場所を確認して中之島に行ったんだけど、ビルを探すのに手間取って映画上映ぎりぎりに間に合った。狭い部屋の椅子席は満員で、小さいスクリーンの前の地べたにけっこうな人数が座って見ることになった。
パリでのボールドウィンの姿が淡々と映写され、家族、友人、作家、批評家のインタビューが続く。ハーレム135番地、ここでボールドウィンが生まれ育ったということがわかっただけでも収穫と思った。たしかパリでの恋人も出てきて、もう彼も老年になっていてね、なんか感銘を受けた。
こんなことしか覚えてなくてしょもないね。でもビデオがあるはずだ。以前ツタヤでちらっと見たことがある。そのうち借りてこよう。
エドマンド・ホワイトが長年パリに住んでいるということを知ったら、急にジェイムズ・ボールドウィンを読み返したくなった。ボールドウィンは1924年ニューヨークのハーレムで生まれ、作家を目指したがお金にならず、48年ごろには黒人として書いていることが危険な状況になり、フランスへ脱出した。そこで「山にのぼりて告げよ」などたくさんの作品を書くことになる。というような大作家なのだけれど、今日はそういうことはおいておこう。
わたしは1964年発行の「もう一つの国」を後生大事に持っていて、数年ごとに198ページを開く。そのページに現れるのはとても素敵な男性どうしの恋のはじまり…。
パリの歩道をフランスの青年イーヴが携帯ラジオをならしながら歩いている。ベートーベンの「皇帝」が響いている。孤独に歩いていたアメリカ人の俳優エリックが声をかける。「その曲の最後のところを聞かしてもらえませんか?」イーヴの笑顔、その瞬間エリックの心臓に衝撃がはしる。
いろいろあって、エリックは先にアメリカへ帰りイーヴを呼ぶ。最後はニューヨークの空港へイーヴが降り立つ。ちょっと不安な気持ちで見回して、迎えにきているエリックを見つけるところがすごくよくて、読者は幸せになる。もちろんそれだけの小説ではないのだが。
「燃える図書館」という言葉のなんと美しいこと!
去年だったか、NHKテレビでたしかイギリスBBC放送制作の「知の旅」というシリーズ番組をやっていて、その夜はジャン・ジュネがテーマだった。ジュネが歩いたパリの歩道を歩きながら話しているアメリカの作家に惹かれた。なのに、それがだれだったかを忘れてしまって、でも、あの歩き方、話し方だけは覚えている。ちょっと太めの中年の男性で内省的な話し方がとてもよかったのだ。
なにかのときにS嬢に話したら、それはエドマンド・ホワイトでしかあり得ないと言う。そしてその番組を見たかったと悔しがるのだった。わたしはエドマンド・ホワイトと聞いてもまだわからなくて情けなく、図書館に行って小説を数冊と「アメリカのゲイ社会を行く」を借りて読んだ。そしておそまきながらエドマンド・ホワイトの大ファンになった。
この「燃える図書館」(河出書房新社 3800円+税)もすぐに買ったS嬢からお借りしたものだが、エドマンド・ホワイトが書いたたくさんの評論の中から選んだものを、1970年代、80年代、90年代と分けて編集してある。読み出してもなかなか進まないのは、わたしも生きてきた時代にゲイとしてアメリカ社会で生きていたホワイトが書く重い内容を噛みしめていたからだ。
1970年代のゲイ解放運動がさかんな時代から、エイズに苦しめられた80年代、エイズ後の90年代という時代の、文章としては当事者というよりも観察者という感じのものが多いのだが、ただの観察者と言い切れないのは、やはり自身がゲイであるというところからきているのだろう。
ジャン・ジュネ、マルグリット・ユルスナール、エルヴェ・ギベールについてもはじめて知ったことが多くてめくるめく思いである。あとがきに近々「ジュネ伝」が翻訳されると書いてある、うれしい、いちばんに買いに行く。
果物でいちばん好きなのが柿、と毎年言っているが、今年も言うね、柿がいちばん好き。食べてもちろんおいしいけど、形がよくて、色がほんまに秋の色。小さめのをアケビのカゴに盛りテーブルに置く。ほの暗くした電灯の明かりで、ほんとうに長い秋の夜って感じになる。
背の高い紫苑にふじばかまを添えて大きい花瓶に活けて床に置く。今年の月見は忘れてしまったけれど、あのときはまだ暑かったものね。これからは毎晩もっと秋の夜が味わえる。
ラジオをかけたとたんに女性の声で「スカボロー・フェア」が聞こえてきた。映画「卒業」(1967年)でサイモンとガーファンクルが歌っていた、一度聴いたら忘れられない哀愁のこもった歌である。最初に「卒業」を見たときは、映画のほうに気がいっていてなんとも思わなかった。このころの歌はわたしの耳に入ってはいたのだけれど、意識して聴いていたのはジャズだけだったから。
この映画をわりと最近テレビで見たんだけど音楽がすっごく聞こえてきてね。へえっと思っていたら、歌詞が画面に出て「パセリ セイジ ローズマリーにタイム」と何度も繰り返す。はあっ、こういう歌詞だったんですか、ってびっくり仰天だった。反戦の意志をこめた歌だそうだが、こんなに静かで哀しくて美しくて…すごい。さっきラジオで歌っていたのはサラ・ブライトンだったが、やっぱりサイモンとガーファンクルの声でないとね。今日は思い切ってCDを買いに行こう。
秋月こお「フジミ・シリーズ」の「雨また雨」で、バイオリンで思った音が出せなくて落ち込んだ悠季に、圭がピアノを弾いてなぐさめる。その曲がサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」なんだよね。そしたら悠季が「スカボロー・フェア」を弾いてくれという。死んだ両親が好きだった曲だ。そして墓の前でこの曲を弾いたときの気持ちを思い出す。あのときの音。守村悠季が自分の音を出せるようになるのは、それから間もなくだった。
ビスコンティが1971年に撮った映画で、封切りで見たときは感激した。トーマス・マン原作、音楽がマーラー、主演ダーク・ボガードとくれば良いに決まっているような映画だもんね。でも梅田の東映会館はがらがらで、わたしたち以外は5人と数えられるほどであった。たしか上映1週間で打ちきりになったような気がする。
こちらの生活スピードが早まったせいもあるだろうが、今回はだらだらと長くていやになった。うーん、もしかしてこれは若い者が見る映画かもしれん。だからって若者が理解できる映画ではないんだよね。いや、理解できないから良いと感じるのであろう。わたしだって昔見たときは理解してなかったのが、いまよくわかる。あまりにも老醜を描かれると、老境に近い者としては自己嫌悪におちいっちゃいますよ。いややけど、ビスコンティってすごいところがある人だとは言える(笑)。
ベニスのホテルのホールにいくつも飾ってある色彩豊かな紫陽花とその花瓶など、当時流行したらしい日本風を昔は知らんかったのが、プルーストを読書中のいまはふんふんと納得できる。上流階級の贅沢な生活を見せてくれつつ、そこで働く人間が金持ちをコケにするようなところも描く、やっぱりビスコンティの目はしっかりしてるわね。
若者の母親役のシルバーナ・マンガーノに以前は圧倒されたけど、今回はそうでもなかったし、といろんな感慨を呼び起こす映画であった。もう一度見る気はないけど。
家からほんのちょっと行ったところに新しいお店ができた。もとはなにかの会社だったところで、間口は狭いが奥行きがある。ドアの外にいくつか鉢植えが置いてあるので、花屋と思って中に入ってみた。両方の壁にそって棚が作ってあって、熱帯魚と熱帯動物のケースがあり、熱帯植物の寄せ植えがある。部屋の真ん中は大きなテーブルに単体の植木鉢。やさしいお兄さんが店主であった。熱帯ものが好きで、趣味で作ったり飼ったりしていたが、今回はじめてお店を持ったという。
カメレオンの昨日産まれた赤ちゃんが8匹動いている。親は別のケースでケンカの最中である。小さなガラス瓶の中ではランブルフィッシュが泳いでいる。名前を忘れたけど熱帯動物がうごめいているケースがある。こういう生き物を家で飼うという趣味はないので、ここへときどき見せてもらいに来ることにした。
植物はラン科のものやサボテン類もたくさんあるけど、店主の得意は羊歯で、胞子から育てることができる数少ない人間の一人だそうだ。すごい値段のついているものもある。熱帯植物の寄せ植えは、注文すればその人の部屋にあったものを作ってくれるという。水をやるのがめんどうな人向きとか、部屋の明るさとか、好みに合わせていろんな条件にあったものを部屋に作ってくれるとのこと。うちにはそんなものを置くコーナーがまずないわなあ。
気に入った中で値段の安い鉢植えを3鉢買ってみた。アフリカの鮮やかな緑の葉の芋類を2鉢、田植え前の稲の苗のような雑草を1鉢、合計1050円。
毎日部屋にいることが多く、もうお彼岸だからと思っても、昼間の気温の高さで秋という感じがまだまだしない。でも、ちょっと出かけるときに白いウォーキングシューズが薄汚れているのが気になった。いっそ真っ白に輝いているのならいいが、この季節に薄汚れた白はいただけない。靴箱にある去年の黒は相当にくたばっている。それで新しいウォーキングシューズを買いに心斎橋の大丸に行って来た。
ほんとに最近は用事がないと出ないので久しぶりの心斎橋だ。今年の秋冬ファッションを知りたくて、大丸の婦人服売場を一回りしたが、あんまりつかめない。部屋にとじこもり生活のせいかしらん? これはいかん、いままで自分が着なくても流行りものを知っているというだけで自信になっていた。まだまだこっち方面でも現役でいたい。ファッション雑誌で追っかけよう。
スポーツ用品売場でアシックスのサルタスの黒、毎度同じ靴だが新しいのはうれしい。最近は靴の紐を通してくれるのよね。これが苦手なので助かる。
心斎橋筋をすこし歩いてみた。黒っぽい服装が多い。たまにコートなんか着ちゃった若い子がいる。夏の間考えて買った秋の服をいち早く着ているんだけど、見るからに暑そう。しかしこういう風景を見るのが好きなので街歩きはたのしい。
まだ日差しはきついが夜は涼しい。つい寝冷えしてしまうんだろうね、鼻風邪が流行っているらしい。
窓を閉めて眠るので騒音が入らず熟睡できる。一昨日ハリに行ったとき、Sさんとまた「鬼平犯科帳」の話になって、江戸市民がぐっする眠っている今ごろが泥棒の活躍する時期だ、と去年と同じ会話をした。今年の秋も一応元気でこうして話し合えて幸せなことである。
宅配が来たのでなにかと思ったらS嬢から誕生日プレゼントだった。箱からいい香りがもれている。開いたらマグノリアのポプリとエッセンシャルオイルが入っていた。くらくらするくらいにアメリカ南部の強烈な香りがする。最近は香りといえばラベンダーにしていたので、かわった香りがうれしい。しかも今年はだれからもプレゼントが来なかったのでよけいにうれしい。
とたんに元気になって掃除をした。扇風機とうちわをしまって、間仕切りのカーテンと戸を入れ替えた。すだれはもう少し後にしよう。
ベランダの最後のバジルを切って、花はコップにさし使えそうな葉は日曜日のスパゲッティ用に冷蔵庫に入れた。タイムは去年の冬を越した元気なやつだ。今年の冬も越してもらわねばと伸びすぎた葉を切ってやった。
夕方図書館に行ってアリソン・アトリーの「チム・ラビットのぼうけん」を子どもの本のところにゆっくり座って読んできた。花子に読んで聞かせたこともあったウサギの話である。うちのネコは楽しい物語がわかるかしこいやつだった。さあて、お風呂にオイルを入れてアロマテラピーしよう。
わたしは小学校のときは虚弱児童(と言うと笑われるが、ほんと)で体操の時間は休んでいるほうが多かった。生まれつきの不器用のうえに、からだを動かすセンスというものがぜんぜんない。だからVFCの例会に使わせていただいているシャーロックホームズが、ダーツの普及に頑張っているのをみていて、わたしもダーツをやろうと思ったのに、そしておしゃれな的や羽根を買ったのに…ものにならなかった。事務所の壁に無数の穴を開けただけだった。はじめは的までとどかず、とどくようになっても的にまともにあたらないのである。
10代の終わり頃から登山をするようになったが、これは歩くだけだからね。それでも少しはロッククライミングの真似事して、ハイカーとちゃうで、クライマーやで、と言っていた(笑)が、25歳過ぎたらとたんに体力が落ちて、低山逍遙趣味に落ちてしまった。
そういうことで、現在のわたしの日常は、机の前に座る、台所で立つ、用事で外を歩く、の3つがからだを使うことである。肩こりを生涯の友として。
先日美容院で長く座っていたあとに立つときヒザがこわばる。ドッコイショと声を出したら、店長さんがそれは治るよと言って、体操教室を教えてくれた。気功を取り入れた東洋体操で、腹式呼吸で動くと言う。知りあいのだれやらも元気になったし痩せたそうだ。
東洋体操やらツボ体操やら本はいっぱい買ってある。だいたいにおいてリクツは言うが実践がともなわない。本を読んでいる時間は瞬く間にたつのに、体操している時間はたたないのだ。
よそでやれば所定の時間やるかもしれないと思って見学に行ってきた。週1回午前中の2時間、1人でやるのと、2人が組んでやるのとあって、不器用でもできそう。これなら続けられるかもしれない。ちょっとだけ体験させてもらった帰り道、公園の水道でじゃぶじゃぶ顔を洗った。いい気持ち。
ノーマ・フィールドは数年前に「天皇の逝く国で」を書いた人で、この本はわたしには衝撃的だったので、目を離せない人だと思っていた。その後にも朝日新聞にするどい評論を書いているのを読んで気にしていた。
そのノーマ・フィールドが新しい本を出したと知って買いに行った。手に取ってぱらぱらめくっていたら、目に入ってきたのは【この本なしには、私は生きていかれなかった。】という1行だった。その本とは「ジェイン・エア」で、エッセイのタイトルは「東京の『ジェイン・エア』」である。10歳で家にあった「ジェイン・エア」を読んだ少女は、年に何回か忠実に最初から最後まで読む思春期を過ごした。つらい時期をジェインで切り抜けたのだ。大人になって、この作品にたいする客観的判断ができるようになり、なにしろ19世紀の英文学だから帝国主義の植民地支配を肯定している思想的側面がある、などもわかっていく。しかし、彼女はこの本を読むことで、きつい少女時代を生きてきたということは否定できない。
そして、【結局、文学を考えるというこは、ある作品を弁護するか、捨てるかの問題ではなく、作品の書かれた時代、読まれる時代、それから個々の読者の状況を射程に入れたうえで、描きだされる可能性の地平線を見いだすことではないだろうか。いうまでもなく、これはたんにアカデミックな作業ではありえない。】と結んでいる。
ノーマ・フィールドは現在、シカゴ大学人文学部東アジア言語文化学科長という地位にいる人で、東京で生まれた。父がアメリカ人、母が日本人で、祖母の病気でひさしぶりに日本に帰ってきたときのことを書いたのが「祖母のくに」。その他のエッセイも人柄が出ていていい感じだ。思索する人である。
これから読む論文「戦争と謝罪」は、考えなければいけない問題を突きつけられそうで、ちょっとひるんでいるが、でも読みます。(みすず書房 2000円+税)
静岡県在住のVFC会員大藏まきこさんが発行している季刊「パンドラの箱」〈秋〉12号が発行されました。これを読んでもらいたかったから発行に踏み切ったという「Battered Wives」の翻訳は今回で終了。今回のテーマは「結婚の経済学」です。「妻」と「夫」の役割について的確に述べてあり、社会的イメージと自己イメージの葛藤がそれ自体暴力を呼ぶという指摘も納得できます。
その他、鈴木隆文さんの「加害者プログラムについて思うこと」、特集「被害者になるということ」など、ドメスティック・バイオレンス等の加害者・被害者について具体的な提案があります。
読みたいかたは私までメールをください。
急に涼しくなった。窓から入る風が冷たく感じるほどである。日曜日の快楽、朝寝をしてゆっくり朝食(ご飯、さつま汁、とりレバーの生姜炒め、山芋たんざく、梨)を食べたらまた眠くなったので寝てしまった。
お昼はずっとおそく、相棒がきざみうどんを作ってくれたので食べ、ようやく散歩に出た。夕方サッカーの試合がテレビであるから、それまでに帰らなければならない。時間が押してきたので、靱公園の横のおしゃれな植木屋さんだけ行くだけにした。涼しくなったので、なにか新しい鉢植えを部屋に欲しいねって、ことで。
この店で買った鉢植えは、その後におしゃれなカフェなどに置かれているのを発見する。いつも新しいものを輸入しているそうだ。パンパスの鉢植えなんて丈が2メートル近くありそうだが、天井の高いカフェなんかに似合いそう。あれこれ見ていたらトネリコが3鉢もあった。細い枝が数本植えられていて、細かい葉がとても繊細だ。トネリコはいつか千里の道の並木になっているのを発見して感動した。だってなんてったってワグナーだもん、と一つ覚えである。それが鉢植えになっている! 2500円のいちばん小さいのを買うことにした。
家に持って帰ると店に置いてあるよりずっといい! サッカーを見ながら花子の花束とトネリコで超ご機嫌であった。
昨日は夕ごんを作るのをさぼって外食した。近所の中華料理の店に食べに行くのは、ほとんどないめずらしいことだ。ギョウザと酢豚と焼きそばを食べてビールを飲んだ。われながらよう食うわ。
その後チャルカに行ったが、さすがケーキは遠慮してコーヒーだけにした。アメリカ村のもっとも西側にある店だが、若者のカップルが続々やってくる。雑貨だけ見ていく連中が多い。変わった掘り出し物があるカフェと雑誌にでも出たのかな。外から店を見て、外に貼ってあるメニューを見るだけで帰っていくカップルも多い。
若者に混じって雑貨を探していたらおもしろいものを見つけた。豆電球が束になってプラスチックの箱の上に置いてある。あまりにも可愛いので花子に買ってやろうってすぐ思った。1200円だった。家に帰って箱を開けてみると、なんの、これはクリスマスツリーなんかに引っかける電飾であった。緑、青、赤、黄、白、の5色の小さな電球が20個10センチおきについている。コードを折りまとめてコップにさして電気をつけると可愛い花束となった。色がね、とてもきれいやねん。赤はいちご色、青はきらめき、黄はオレンジ色に光っている。暗くなってから他の明かりを消してこの花束だけにした。花子の写真がほのかに見えてとても美しい空間になった。
あれこれ他の本を間にはさみながら1冊目をようやく読了。20代ではじめて読んだとき、その後の2度目も、第2部「スワンの恋」でひっかかって終わった。第1部「コンブレー」での幼年時代は読めても長々と語られる第2部のスワン氏の恋の話がだめだった。3回目に完読したときはここを突破したからだとうれしかったものだ。それほどスワン氏の恋のいきさつを読むのはかなわんかった。4回目はけっこう楽しんで読んだと思う。それからまた年月が経った。
今回第1冊目だけを読んでの感想だけれど、ものすごくすばらしく官能的な小説なのね。コンブレーでの幼年時代の母への愛のはげしさ。しかし少年は女にこがれてオナニーも経験する。死の床の叔母の様子や、女中のフランソワーズの自分よりも下の人間へのイケズの仕方とか、洞察力がするどい。具体的な描写の巧さと解釈の容赦なさにたじろいでしまう。
有名な紅茶とマドレーヌの前に、過去と記憶についての考えを延々と述べているのが納得できたのも、今回の収穫であった。というのは、私にとっては猫の花子の死で思い起こしたさまざまな記憶について、この説明は納得させてくれるものがあったからだ。
サディズムについての観念をのちのち自分でつくりあげるようになった直接の印象、と述べているヴァントゥイユ嬢についての細かい描写。一軒の家の窓から見えた、ヴァントゥイユ嬢と女友達の行為。その快楽を悪徳と考えるようになったヴァントゥイユ嬢についての解釈がするどい。
第2部「スワンの恋」では、スワンがオデットに恋してから出入りするようになったヴェルデュラン夫人の夜会がおもしろい。だれもサロンに来なかったらどうしようと考えるところなんか、例会の夜に私が感じる不安に似ていたり(笑)する。また夫人とコタール医師の関係は、私が元出入りしていた会の女主人と取り巻きにそっくりなのね。こんなに卑俗でおもしろいところを、以前は見過ごしていたんだわ。
また、この巻をちゃんとおさえておくことで、後の巻を読んだときよくわかることがたくさんあるので、いい加減に読んだらいけない。さて、次へいくとしましょう。
昨日夕方の関西ニュースで、今夜はいざよいの月が見られると言っていた。そうか、前夜は雨で月見ができなかったんだ。しかし月見って買い物に行っても気がつかなかったくらいだったよね。花とか月見餅とか売っていたのかなあ、こんなに暑ければ月見どころではないわ。でも天気が良いのだから十六夜の月は見なくちゃ、と思っていたのだけれど、うちの窓もベランダも西向きなので、遅くならないと月は見えない。パソコンに向かっているうちにころっと忘れてしまって、思い出したのは今日になってからであった。
昔は月見が好きで、夕方仕事場でお酒を温めて魔法瓶に入れ、お弁当を買って奈良へ出かけたものだ。日が落ちた奈良の飛火野の広い野原に腰を下ろす。ススキのそばで野点をしている老夫婦がいたりした。月を眺めながらお酒を飲むとしみじみした。寒くなったねと言って帰り支度するのも風情があったよなあ。もっと早く行けたときは散歩して葛の花を探したり、猿沢の池のあたりを散策した。
このごろは今夜月を見ようと言っていてさえ忘れてしまう。用事で郊外へ行くこともしなくなったので、今年はツクツクボーシの声も聞かなかった。うえーっ、いよいよ都会のネズミかゴキブリの仲間に入ってしまったみたいやな。ま、ええか。
先日の新聞に、まぼろしの郷土野菜「田辺大根」の種を北田辺小学校の菜園に子どもたちが蒔いた、という記事が出ていた。これはきっと「田辺寄席」主催のOさんがかんでいるに違いないと朝食を食べながら笑って読んでいたのだが、やっぱり送られてきた会報「寄合酒」に出ていた。
「寄合酒」の記事によると、昭和の初期までは大阪市でもけっこう野菜を作っていたらしい。東住吉区では米・麦が主だが、河内木綿の原料となる綿栽培もしていたそうだ。綿畑の綿木と綿木の間に天王寺カブラが植えられていた。その他の野菜の中で田辺大根が全国的に有名であったそうな。それが害虫の被害、住宅化、紀州大根の進出で衰退し、まぼろしの大根となったそうである。
さいわい府立農林技術センターが種を増やしていたので、これを田辺地域の小学校や幼稚園に蒔いてもらい、成長を観察してもらう。収穫したら品評会をしたり、「大根炊き」なんかをして遊ぶという段取りである。ほんまによう考える人らである。「田辺大根ふやしたろう会」というの会もできたらしい。
大阪にはほかに、天王寺カブラ、こつまなんきん(西成区)、毛馬胡瓜(都島区)があり、それぞれ復活しつつあるそうだ。
天王寺カブラを信州の人が持って帰って植えたら、根が育たずに葉ばかりが育ったそうで、それを漬け物にしたのが野沢菜だって。知らんかったなあ。
なにも協力せんとできたら食べてみたい、というのはあかんやろなあ。
この映画の封切りは去年の11月だったかな、見たかったのに行けなかった。それからずっと“ロバート・デ・ニーロ製作、U2のボノ映画初出演”と書いてある新聞広告の切り抜きを壁に貼ったままであった。ようやくレンタル店でビデオを発見。
ミュージックビデオの監督しかしたことのなかった青年(スティーブン・ドーフ)に商業映画の仕事がくる。ニューヨークで映画を撮ることになるが、プロデューサーがお金にしぶく、いらつくことばかりだ。そういうなかで、ファッションモデル(ジュデット・ゴドレーシュ)とお互い一目惚れしていっしょに住むようになる。彼女が子猫を連れてきて暮らす生活がとても素敵だから心配になるが、やっぱり長続きしなかった。妊娠中絶することになってから、彼女はフランスに仕事に行ったまま帰らない。映画撮影はうまくいかずクビになる。追いつめられたときにボノがいっしょに仕事しようと持ちかける。1998年「POPMART」ツアーはほんもののU2である。コンサート中に彼女がもどってくるが、彼は留守電を聞いていなかったためにすれちがう。パーティで知りあった女の子と3日しかもたない結婚をしたり、酒とタバコのおろかな日々…。猫が大きくなっていて話しかける。彼女しかあんたにはいない、と。この猫のしたり顔は笑える。パリに追いかけていっても、彼女はもう帰らないという。ロマンチックなあなたを愛しているけど、おだやかな今の相手と暮らす、と。
調べたらこの映画の監督フィル・ジョアノーはU2の「魂の叫び」の監督をしている人であった。その縁でボノが出演したり、コンサートが重要な場面になったりしたのだろう。
インテリアや着るものがとてもおしゃれで小味な映画、そしてちょっと人生についても考えさせてくれる。
先日ちょっと早く起きた日、NHKの朝の地方ニュースで京都中央卸売市場の特集をやっているのを見た。早朝の市場の仕事風景のあとに、特集があって、市場の中を商品を運ぶのに小回りの利く「ネコ車」を見せた。市場の1店に2台以上はあるそうだ。どこがネコかわからないけれど、人間の労働に密着したものにネコという名称をつけたことは納得がいく。造っている1軒の店が紹介された。お父さんが車輪にペンキを塗っていて、息子さんが車体を組み立てている。木の部分は堅い樫の木だそうだ。木の車体に小さい車輪がついていて、車体の片側が長い柄になっている。その柄を持って前へ進むのだ。
辞書を引いてみたら、【猫車=土砂を運ぶ一輪車、箱の前部に車輪があり、後部の柄を押していく。】とあった。この辞書のものは道路工事などでよくみるものだ。へえっ、あれもネコ車なのか。とすれば、卸売市場のはそのバリエーションなんだ。
その放送ではもう1軒「大根のけん」を製造しているところを紹介していた。お刺身を買ったときに何気なくついている「けん」である。毎日1000本の大根を、奥さんが皮をむきダンナさんが機械で削って、水にさらす。そして水を切って出荷する。年中無休でやっているそうである。早起きは三文の得みたいな朝であった。
今日は阿部薫の命日だ。ジャズミュージシャン阿部薫は1978年の9月9日に29歳で自殺か事故死かわからない死にかたで逝ってしまった。
私はその死を2週間ほど後に「週刊朝日」で読んだという友人の電話で知った。しかし、阿部薫が死ぬであろうことは、死の直前に小樽で共演した友人のドラマー日野明に聞かされていた。それは仕方ないとしか言いようのないものだった。
私が阿部薫を知ったのはたしか1970年の夏のことだ。常連になっていた天王寺のジャズ喫茶マントヒヒで、京大西部講堂で行われるジャズコンサートにいっしょに行こうと誘われた。マントヒヒでかかっているレコードはニュージャズと言われていたもので、ジョン・コルトレーン、アーチー・シェップ、セシル・テイラー、アルバート・アイラー、マリオン・ブラウンなどを肩をいからせ聴いていた。また、そういう態度を斜めから眺めてもいるという屈折した若者の集まりでもあった。(あの夏は店に集まった常連がそのまま、年代もののブルーバードで夜明けの白浜海岸までとばしたりした。)
そんなわけで、10人ほどが西部講堂へ行った。入ったとたん、いきなりはじまったのが阿部薫のソロだった。白いコットンパンツに真っ赤なポロシャツでサックスを吹いていた若き阿部薫、19歳でデビューした彼はそのとき21歳だったはずだ。
なにかとうるさいみんなが声もなく聴いていた。終わってから一人が楽屋へ掛け合いに行って、なんと阿部薫を連れてきてしまったのである。ほかの演奏は聴かず、私たちは吉田山のふもとのスナックで、いまのいま知ったばかりの天才ミュージシャンと至福の時間をすごしたのだった。その場で京大の院生であったマントヒヒのマスターが、店でのライブを持ちかけ、すぐにマントヒヒライブが実現したのだったと思う。(30年も前の話なので覚え間違いがあるかもしれない。)
マントヒヒは阿倍野筋から西へ下った旭町通りにあった。いまは副都心計画とやらであとかたもない。だらだらとだんだん細くなていく道を下ると、道のあちこちには女装の客引きがたたずみ、ギターを抱えた流しがスナックで歌っているのがきこえる。
ライブは客がたくさん入った。私はすっかりスタッフをしてしまって、聴くことに没頭できなくて残念であった。反面、主宰者側で得意でもあった。そのとき来ていたのが、その後の京都での阿部のライブの世話をすることになる女性のYさんで、あちこちの店で顔を合わせていた私たちは、その後友人になった。
阿部はその夜から何日か店の2階に泊まっていったと思う。私も夜になると毎日出かけていった。たいていカウンターの隅で、セロリに塩をつけてかじりながら、テキーラかジンをストレートで飲んでいた。ある夜、突然楽器を持って立ち上がって、「アカシアの雨にうたれてそのまま死んでしまいたい」を吹きだした。あっと言う間に高くのぼっていつまでも続くていく音、私にはあれが最高の阿部薫だった。日本的湿気のある音でありながら、ジャズであり、ジャズを超えている音楽。そこに場違いな客が入ってきてマンガ雑誌を読みだした。阿部は雑誌を取り上げ客を外に叩き出して吹き続けた。
その後何度かライブをやったと思う。ある夜、数人で新世界にくり出し「づぼらや」でテッチリを食べた。彼はあんまり食べずにきげんよく話していた。中国料理の蚊の目玉だっけ? それからツバメの巣とか、そのころの私は初耳だったのでおもしろく聞いた。真夜中、店を出ると美術館の方角に人が固まっているのが見えた、と思ったのは私の幻想で、木が数本こんもり繁っているだけだった。阿部薫を大笑いさせたのは私ぐらいだろうねっ。
Yさんが阿部に連絡をして京都でライブを始めたのはそれからすぐだった。「蝶類図鑑」というジャズ喫茶で、真ん前に座って聴いた。楽器から出る唾がかかってきてうれしかった。数年間そういうふうに京都のあちこちで聴いていたと思う。Yさんはとことん入れ込む人で、世話が大変だったという話をのちのち聞かされた。
私が聴いた最後のコンサートは京都のどこだったか場所は覚えてない。前田正樹という舞踏家と共演した「なしくずしの死」だった。2人のアーティストの最高の演奏と踊りだったが、最初のころ聴いていた音よりも、重い苦渋に満ちた演奏だった。「なしくずしの死」というセリーヌの小説からとったタイトルが阿部を象徴していた。“終わった”って気がした。
その後は阿部薫を無理して聴く気がなくなってしまった。京都へ来ているかを知ろうと思わなくなった。なぜかジャズへの気持ちも切れてきた。それまでロックを無視してきた私だったが、78年にはパンク・ニューウエーブの空気の中に入りはじめていた。
彼を忘れない人たちがたくさんいるらしく、本やCDが出ていて、阿部薫の名前を知っている若い人も多い。彼を知っていたことで羨ましがられたりする。話をすることで思い出すことも多い。でも私はCDで彼の音を聴く気にはなれない。彼が“いまここで出した音”を聞いてしまったから。阿部薫が心で捕まえて楽器をとうして出した音は私の心のなかにあの時代とともにある。
久しぶりに女性ライフサイクル研究所のフリートークに行ってきた。メンバーのみなさんに久しぶりに会って、いっぱいしゃべって、いっぱい聞いて、たのしかった。無条件で話を聞いてもらえるということのありがたさを感謝。帰り道、メンバーの一人とお茶を飲んでまただべった。充実感が今日・明日くらいもちそうだ。
早めに家を出て、半年ぶりぐらいに天六(天神橋六丁目)商店街を歩いてみたのだが、人が多く活気があってウキウキした。帰りの喫茶店も混んでいて、客の入れ替わりが早い。ケーキセットが500円なんていまどき珍しいよね。
地下鉄の乗換駅長堀橋で降りて、これも久しぶりのクリスタ長堀を歩いて心斎橋へ。飲食店は元気そうだが、おしゃれなお店が減っているようだ。なんだか安っぽくなっている。あれまあ、丸善の店舗が半分になっている。半分はシャッターが下りていた。ミステリーの文庫本も少なくてお目当てのがない。仕方なく、ってぜんぜん関係ないんやけど、東急ハンズに入って台所用品やスリッパを買った。インドのカレー粉があったので買ってみた。明日はカレーにしよう。
外へ出ると雨と雷。濡れようがどうなろうがかまわないから、どんどん降ってくれ。
数日涼しく過ごしやすかったのに、またもや暑い日々にもどってしまった。たまらんわ。午前中に本町まで用事があって出かけた帰り、靱公園のいちばん西側に百日紅がたくさんあるのを思い出して見に行ってきた。片隅でホームレスのおっちゃんたちが昼寝している以外は誰もいなくて、いい休憩だった。
もうくたびれたよって感じで百日紅が咲いている。サルがスベルほどつるつるってことで、サルスベリというのだろうが、漢字を見ているほうがずーっといい。暑い間長く咲いてごくろうさんと言いたい花である。しかも可憐で美しい。奈良や高野山で見たお寺の庭の真ん中に威張って1本あるのもいいが、ここのも町中の子って感じでいいと思うよ。
ここの木は、うつぼテニスコートを造るときに植えられたもので、白から紅までいろいろなピンク色がある。淡いのや紫がかったのや、ほんとうに美しい。庭園風に置いてある石に座って、これも人口のちょろい池を眺めていると、トンボが飛んでいる。蝶も飛んでいる。なんか感動してしまってじっと座っていた。
昨日「のんちゃんジャーナル」のことを書いたのだけれど、この本は(2)も出ていてる。たいていの本は最初の本がよくて(2)は「なーんだ」と思うことが多いが、これはどっちもとてもいいのです。
(2)のほうがつっこんだテーマが多いかな。パラパラ開いていて、「ABCブックって好き」にあるアメリカ製のブルーの電話機がなつかしい。わたしはみんなが黒い電話機を使ったいたころ、映画を見てあこがれていたあの電話機を輸入雑貨店で買って使っていた。バカ高かったのを覚えている。
夏休み絵日記に郷愁を誘われたり、「お、やっぱりある」とブリジット・フォンテーヌのアルバムに見入ったりした当時がなつかしい。いつのことかと思ったら1988年6月から1989年12月の「Olive」に連載されたものだった。
「『悪名』シリーズはかわいい」なんて、最近なんでもかわいいという若い女性のはしりみたい。「『真夏の夜のジャズ』の帽子のお話」「雑貨屋さんになるとしたら」もたのしい。わたしは帽子も雑貨も好きなので、見ていてあきない。
今年はお気に入りのパナマ素材のつばの広い帽子をかぶって出かけることがなかった。近所ばかりしか行かなかったので、布の帽子ですませてしまった。壁のアクセサリーになってしまったパナマ帽子を、来年はかぶってどこかへ出かけたい。
雑誌「Olive」が休刊になると、S嬢がメールで教えてくれた。彼女はほんとに少女時代に「Olive」を読んで育った人である。わたしのようなトシとった野次馬読者が淋しいのだから、彼女はほんとに淋しいと思う。雑誌が休刊ということは、売れなくなった、つまり時代とそぐわなくなったということで、愛読者の郷愁とは別のさまざまな問題があるのだろう。来年装いを変えて再刊とのことだが、同じマガジンハウスの、素敵だった「アンアン」が大衆的な「ノンノ」に追い越されて、いまの姿に変わったときのことを考えると、とうていよくなるとは思えない。
そこで思い出したのが、仲世朝子「のんちゃんジャーナル」(マガジンハウス 1200円)で、86年10月から88年4月まで「Olive」に連載されていて、わたしはとても愛読していた。1冊の本になってからもときどき出してきて楽しんでいる。これこそ「Olive」の心って感じの本だ。“のんちゃん”という女の子が、イヌを飼う話から、映画、おしゃれ、絵本、パーティ、食べもの、インテリア、など、新しいのに郷愁をさそう仲世さんの感性で選ばれたものが、気の利いた文章と独特なイラストで輝いている。わたしが特に好きなのは「オーダーで作った赤い靴」で「オズの魔法使い」のドロシーが履いていた赤い靴にあこがれて、赤いエナメルの靴を注文する話。のんちゃんはこの赤い靴をはいたときは、ドロシーのようにときどきかかとを3べんならしてみるんだって。
一昨年の9月4日、ヴィク・ファン・クラブのホームページをはじめた。今日から3年目にはいる。
早くから作りたかったホームページだが、アタマばかり先走ってなかなか手を出せなかった。当時早川書房にいらした村上さんからの、サラ・パレツキーさんが日本語のホームページを欲しがっているというメールで、腰を上げたのだった。実は最初から会報のデザインをしてもらっている杉谷正明さんに、ホームページの制作もお願いすることに決まっていたので、DTP仕事で忙しい彼に無理矢理ねじこんだのだ。ヴィク・ファン・クラブのホームページは、現在web制作が本業になっている彼にとって最初の作品となった。
ヴィク・ファン・クラブの強いところは、そのときまで7年間、きちんとした会報があり、力強い原稿が存在していることで、それらをサラ・パレツキー、シカゴ、ミステリー、エッセイ、と分類した。それにミステリ評論家である会員の広辻万紀さんに、著作リストとサラ・パレツキー及びヴィクの紹介を新たにお願いして構想が決まった。わたしが「ほとんど毎日」なにか書いてみようということにもなった。
それから多少の手直しがあったが、ヴィク・ファン・クラブのホームページは日々前進している。エッセイのページには、新しいメンバーの名前がまだまだ増えていくはずだ。「若狭だより」「シカゴだより」も回を重ねている。新しい読者も確実に増えている。
あの夏、わたしの目の前には飛蚊症というのか黒い蚊が飛び交い、肩が凝ってがちがちになった。以来、体力の衰えを痛感しているが、心のほうはどんどん舞い上がっている。身体をいたわりつつ前向きでいこう。実は今日はわたしの誕生日やねん。ヘンリー・リオス(当サイト、ミステリページの「マイケル・ナーヴァ」を読めばわかります)といっしょなのがわたしの自慢。
数年前の話だし当事者も引っ越されたから書いてもいいだろう。といっても大した話ではないんだけど。
まだ事務所へ通勤していたころ、お弁当を持ってネコにしばしの別れを告げ、さあ出かけようとドアを閉め、のんびりエレベーターの前に立った。エレベーターが上がってきたんだけど、殺気が出てきた。ドアが開くのももどかしく2人の男性が飛び出してきたのだ。「警察や、屋上はどこ?」「そこやけど、鍵がかかってるけど…」話は無駄とばかりに、2人はガシャガシャと屋上へ出る階段の前のドアを開けようとするがびくともしない。屋上は近所の子どもたちが勝手に入りこんで悪さをしたということで、だいぶ前に上がり口に鍵をつけてあったのだ。
「管理人さんに鍵をもらわないと」と言って一緒にエレベーターに乗って降りることになった。「この屋上でなにかあったんですか?」「殺人や、屋上に死体があると電話があった」「ひえーっ! ほんま?」下へ降りると、アパートの前にはもう“立入禁止”の黄色いロープが巡らしてあり、野次馬がいっぱい。管理人をさがすのにうろうろしていると、別の刑事さんが「あんたが通報したんか」と聞くので、「ここの住人です。管理人をさがしているところ」と答えた。野次馬さんたちにじろじろ見られて、ロープの内と外とは格段の違いがある。
鍵があったからって、もう一度いっしょに上がるわけにいかない。じっと今度は野次馬になって待っていた。警官たちが降りてきた。小さいアパートのなにもない屋上だもん、すぐだわね。死体もなにも見つからなかったそう。
真実は、わたしと同じ階に住んでいた女性が、裏切った恋人を殺して屋上に捨てたという幻想を、現実のこととして警察に電話したのだそうである。
“大阪の長い暑い夏”っていうのは気に入っていて、毎年わたしが使う言葉で、手紙やらヴィク・ファン・クラブの通信で読んで、またかって思われるかたも多いであろう。それで、いまタイトルを書いたものの、気になってバックナンバーを調べた。「ほとんど毎日」では初登場やった。
いや、いや、今年の大阪の夏は暑くて長い。もう「ええかげんにせんかい」ってどなりたくなるが、まだまだ続くと天気予報で言っている。今日はあまりの蒸し暑さと、気の向かない手紙を書いたので、くしゃくしゃして喫茶店に行った。クーラーがきついところでは熱いものしか飲まないのに、フラッペを頼んでしまった。そういや先日もカシス入りアイスティーを頼んだんだった。やばい。
アイスティーのときは、ビールを飲んで歩いた後だったので快適だったが、今日はあかんかった。おなかが冷たくなって、ゆっくり本を読んでいられない。半分残して帰ってきた。ときどきバカをやってしまうが、これも暑さのせい!
写真は仲世朝子「のんちゃんジャーナル」