近所の神社で毎年の行事になっている6月30日の夏越大祓(茅輪神事)。青々とした茅の大きな輪が鳥居に取り付けてあるのを、左足を先きに3度くぐって、今年後半の健康を祈願するというものだ。信じているわけではないが、忘れない限り毎年行ってくる。
青々とした茅の輪が雨に濡れている日もいいが、今日のように曇り空の夕暮れどきに、うっそうとした木々を周りに見ながらひとりでいると、とても神秘的に感じられるのがうれしいような気がする。
ともかくも、今年も半分過ぎたなって気持ちと、梅雨時のややふさいだ気持ちにふさわしい感じがいい。平安時代から伝わってるってのも効いているよね。
台所用のタオルを引き出しから出したら、使うのがもったいないような。ピンピンにアイロンがかかってきっちり畳んである。梅雨時はシーツも下着もアイロンがかかっていて気持ちいい。自分でしたことだけどね。アイロンかけてるときもアイロンの熱が湿った部屋にいいような気がする。
「鬼平犯科帳」で梅雨冷むの日に鬼平夫人が座敷の火鉢に、炭をかんかんにおこしているシーンがあって、とても印象的だった。アイロンでは色気がないことおびただしいけど、まあ、しゃあないか。
食べるものもよく火を通したり、準備になにかと気を使うが、食べるときに気持ちがいいのでむくわれている。
もう少ししたらめくるめく夏がくるのだ。
少し早すぎると思わない? 雷が鳴りざんざん降りの雨の中、ベランダでぐっしょり濡れながら朝顔が咲いた。せっかくはじめて咲いた花が、こんな日和で可哀想。
「母の日」にスーパーマーケットでもらった苗が、どんどん伸びて、1本の苗が枝も分かれて、葉っぱもすごく大きく数十枚もつき、蔓が針金をぐるぐると巻いている。この朝顔さん、うちのベランダが気に入ったんやね。信じられない伸びかたと毎日思っていたが、ついに花が咲いた。薄紫がかった紅色。これからいつまで咲いてくれるのだろう。もう次の蕾も待ってるねん。
今朝の新聞で長澤節さんが亡くなられたのを知った。長澤さんを知ったのは子どものころで、それからずーっと好きな人だった。
姉が買っていたたくさんの女性雑誌の中に「白鳥」というのがあって、これは多分4回で廃刊になったように思う。わたしはその4冊の「白鳥」を姉からもらって、とても大切にしていた。
その「白鳥」に名作物語があって、挿し絵が長澤節さんだった。小さな花とセツというサインはいまと同じだった。アンデルセンの「即興詩人」、ドストエフスキーの「白痴」、コレットの「青い麦」と3冊は思い出せるが、もう1冊の記憶がでてこない。くやしいな。そういえば、表紙も描いてはったんじゃなかったかしら。あの線、あの色彩の女の人の顔の表紙が思いだされてきた。繊細な線と赤紫の色彩で女性の顔、そうそう、やっぱりセツというサインが表紙の右下にあったわ。
「青い麦」のすらりとした足首の細い少女(ヴァンカって名前だったような)の絵がすてきだった。繊細な美しい少女と美少年の物語かと思っていたら、少年をたやすく誘惑する大人の女がでてきて、その存在感に震えたものだった。ずっと後になって、映画「青い麦」でエドウィージュ・フィエール扮する大人の女で震えの意味がわかったのだった。そのころは、まだ少女の揺れ動く心理などもわかるはずがなかった。
というようなわけで、世界の文学というものに接するきっかけを与えてくれたのが、長澤節さんの絵だったのです。
外で働いているときは梅雨時の洗濯がたいへんだった。ベランダの内側に乾したり、部屋の中に吊ったりして出かけ、帰宅してからべたっとした洗濯物を、あわてて取り入れていた。とてもばたばたしていたものだ。部屋中に洗濯物がぶらさっがっていたりね。
家にいると、そういう目に見えないことで、とても気分が休まっている。洗濯機をかけておいて、雨が小降りになると乾したり、アイロンをかけたり、細かい配慮ができる。洗濯物がたまるといやなので、とてもこまめにする。家事をする楽しさってあるもんです。
先日ある女性ばかりの集まりで、自己紹介ということになり、VFCの説明をしたら「まだやってるの?」と質問が飛んできた。初対面の人である。8年前に朝日新聞の家庭欄で見て、参加しようかどうか迷ったけど行かなかったという。わたしも同じ新聞を見たのだが、迷わず参加して今日がある。
行ってれば長い付き合いになってたはずやねえ、と笑いあった。でもいまからでも入会するとは言いはらへんかったのが残念。
8年前の6月に新聞で見て参加した人たちが、こんなにたくさんの人が集まったのに1回きりではもったいないと、VFCの継続を決めたのだった。新しい発足が11月だから、今年の11月が来れば8年目を迎える。9月になればホームページをはじめて1年ということになる。
去年まだこのホームページを始めていなかったときの会報『VI』の編集後記に、毎年新しく買う自然素材のバッグのことを書いた。初夏になると気になってデパートやアメリカ村のお店をチェックする。アジアやアフリカで作られた草や枝を編んだバッグが好きだというようなことだった。
去年はそれを書いたせいで、エディ・バウアーで買った焦茶の細い縄で編んだバッグを持っていると、「それがあのバッグ?」と何度も聞かれた。最近は「今年はもう買った?」と聞かれている。
買いました。またもやエディ・バウアーで、ベージュ色で革の持ち手がついているのを買った。今年は自然素材が流行らしくて、どこのお店でも売っているが、なかなかこれといったものがなかった。阪急で見つけて気に入った上等なのは、ほっそりしたワンピースかなにかに合いそうだから、いくら気に入ってもあきらめるしかなかったし。
カジュアルで、自然素材で、たくさん物が入れられるバッグが今年も手に入ってやれやれです。
最近の楽しみは金曜日の深夜のテレビ番組「宇宙船レッド・ドアーフ号」(制作:イギリスBBC放送)を見ることだ。わたしはイギリスのブラックユーモアがわからなくて、「モンテパイソン」のどこがおもしろいのか、教えてほしいくらいくらいの人である。しかし、この「宇宙船レッド・ドアーフ号」はめちゃくちゃおもしろくて、「ER」みたいな真面目なドラマが辛気臭く感じられてしまうほどです。
ひとつはドアーフという名前にある。トールキンの「ホビットの冒険」を20数年前に読んで以来、ドアーフだのエルフだのの名前は親しくなっていた。だから新聞のテレビ番組表を見ていてピンときたのね。
もうひとつは、この「宇宙船レッド・ドアーフ号」の下敷きになっている、宇宙ものの映画やテレビドラマに熱中してきたこと。「スター・ウォーズ」や「エイリアン」や「スタートレック」、このへんのものが、人に笑われようが、けなされようが、好きだからしかたがない。なんせ、「エイリアン 3」の先行ロードショーで映画館の前に並んでいるのを、たまたまミナミに出てきた友人に発見され、あちこち吹聴された過去があるくらいだ。
しかし、この番組、汚い画面ではある。美女だと思ってキスしたらゴキブリのでっかいやつだったとかね。思わず「ウエーッ」って叫んでしまう。現実か妄想かわからなくなったり、ゲームの中に入り込んでしまったり、奇々怪々の宇宙ドラマです。キャラクターのおもしろさも抜群。
「スター・ウォーズ」「エイリアン」「スタートレック」…これらのパロディもおかしくってね。今夜も12時30分にはテレビの前に陣取る。
下岡さんにお借りて読んだ本。松岡正剛さんの本は雑誌「遊」を長いこと読んでいたし、単行本もかなり買っている。しかし文章がむずかしくて最後まで読み通した本は1冊もない。そんなわけで最近は敬遠していたけど、この本は最後までおもしろく読んだ。わたし好みのテーマではあるし、引用していること、例えに書いている人のこと、みんな興味深かった。とにかく広くて深いねん。
【「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもって劇的でピアニッシモな現象なのである。】と述べているのが気に入った、というか、鼓舞された。
読み進んでいくと、阪神タイガースファンの気持ちを、当事者以外には理解しがたい「弱さ」にたいする熱狂と言っていて、【彼らが嫌いなのは可もなく不可もない万年中流意識であって、最下位か、さもなくばぶっちぎりの優勝、それだけが生き甲斐なのである。】なんておっしゃってて、「よっしゃ!」である。
最後に優生学に話はおよび、これはわたしたちがいま問題にしている「出生前診断」にまでおよぶことでもある。
ひとことで語ることはできない本だから、興味を持たれたかたは読んでください。強さのみを優れたものとしてきた現代社会を、弱者を取り上げて分析している方法にうなった。
書名がいやなので敬遠していたけど、ノルウェーで法務大臣をしたこともあるアンネ・ホルトの第3作であり、1・2作ともとても気に入ったのを思い出して読むことにした。
解説を書いている香山二三郎さんが“オスロ市警犯罪捜査官シリーズ”と言っているが、そのとおり、1作毎に主人公が変わっているが、大きな流れはオスロ市警犯罪捜査官の物語という構成になっている。今回は警部に昇進したハンネ・ウィリヘルムセンが主人公です。ハンネはレズビアンで医者のセシリーという恋人と暮らしているが、なかなか勤務先では公表できなくて、前作で捜査官のビリー・Tにだけは話しているという設定。
物語は体が異常に大きく醜い少年オラフが、少年少女保護施設に収容されるところからはじまる。すぐに殺人事件が起こるが、その夜少年は施設を脱走していた。少年の母が子どもを産んだ状況、子どもへの愛憎など読むのがしんどいところもある。
ノルウェーの少年少女保護施設の様子なども知ることができてよかった。オスロという街についてもだんだん知識が増えるのがうれしい。前作で活躍していたホーコン・サンド(男性です)が結婚し子どもができ、育児休暇をとっているのだが、次作では仕事に復帰しているのか知りたい。また、ハンネはレズビアンを公表するのか、とかいろいろ先に楽しみができた。
5月31日に書いた「新しい靴」について「あれはブラッドベリだ」ってメールをいただいた。新しい真っ白なテニス・シューズをおろす話だったって。そうだったねえ。「タンポポのお酒」だったよね。そう言えば毎年春になると「タンポポのお酒」を読んでいた時期があったなあ。いつのまにか飽きてしまったけど。
タンポポのお酒をつくってみたいと夢想したが、いくら泉北に住んでいたとはいえ、それほどのタンポポがとれるはずがなく、やむなくタンポポのサラダに落着いたものだ。おいしいというものではないが、楽しい食べ物だったことはたしかだ。
と思い出すとすぐに食べたくなるのがわたしの悪い癖。といってこの大阪市内に咲いているタンポポを食べる気はしない。そこで売っているところ、鶴橋市場を思い出した。韓国のお店が集まっているところ、野菜の豊富さがすごいんです。タンポポやカタクリや、名も知らぬ草のような野菜の数々をこの市場で買った覚えがある。
近々鶴橋市場へ行こう。久しぶりにちぢみ〔韓国のお好み焼き)も食べたくなった。白身魚の入ったのやホルモンのや、オーソドックスなニラ入り…。
これも70年代はじめのこと。ブリジットの低く甘い声を、アレスキのしぶい声が追いかける。その底にはアート・アンサンブル・オブ・シカゴの演奏がのたうつようにあって、なんとも風変わりな音楽の世界だった。わたしにとってこの1枚ほど何度も聞いたレコードはない。日本盤、フランス盤の2枚とも擦り切れるくらいに聞いた。アメリカのジャズボーカルが、力強く、うまく、たたかっているものとして聞いたら、このブリジットの歌は、はかなく、弱く、つぶやいているように聞こえる。思いだした途端に「ラジオのように」をはじめ、全ての曲が頭の中で響きだした。
紫色の地色に帽子をかぶったブリジットのほっそりと繊細な顔のジャケットもよかった。レコードジャケットの大きさに、とてもよく合ったデザインだった。
その後ブリジットとアレスキの新作レコードを2枚買ったけど、もうあの感動はなかった。数年前には日本にも来てコンサートがあったようだが、行く気がおこらなかった。
CDをたまにかけると、郷愁が広がっていくけど、もうあの感動は起こらない。昔の恋人に会ったときのように。
テレビで「アサシン」をやっている。わりと好きな映画で、映画館で見たしビデオでもテレビでも見ている。つけておいてアイロンをかけたり用事をしていたら、主人公が好きだというニーナ・シモンの歌声が聞こえてきた。今夜は気分が懐古的になっているらしく、歌声に誘われていろんなことを思いだしてしまった。
1970年代の始めごろはジャズボーカルをよく聞いた。ニーナ・シモンがいちばん好きで、フェスティバルホールにきたときは前のほうの席がとれてうれしかった。とても優美な動作で歌い、おじぎのしかたなんか白鳥のようだった。でもねえ、あまりにもスターって感じがして違和感があった。
その前に京都・三条のジャズ喫茶に、アビー・リンカーンとカーメン・マクレーが前後して来たのが、とても良かったので比べてしまったのね。アビー・リンカーン…せまいジャズ喫茶にぎっしりと30人くらいの客、わたしの真ん前で彼女が歌っていて、アビーのヒザが座っている私のヒザにあたっていた。歌いながら笑いかけてくれて、わたしは有頂天だったわ。
カーメン・マクレーは愛人のピアニストの伴奏で歌い、二人の雰囲気がとてもいい感じだった。
今年は梅雨入りが早い。今日は1日中うっとおしかった。
夕方買物がてらに部屋を出て久しぶりに靫公園まで行ってきた。以前ケガした右ヒザが痛くなって、それをかばって歩くものだから、左の腰に無理がかかっているらしい。ここんとこ、家族の病気その他ごたついて出かけることが多く、心身ともに無理が続いていた。体を休めるのをまず第一にしているので散歩も久しぶり。
ついこの間まで新緑だったのに、木々は緑深く、夕方の薄明かりの中で足もとが暗い。新緑も良いが、わたしは木下闇をつくっている深い緑の木々が好きだ。しばらく来ない間に薔薇園の薔薇も終わってしまって残りの薔薇がわびしい。でも、最盛期の咲き誇る薔薇よりも、しおたれたいまの姿が好ましく思えるのはなぜかしら。
季節が変わるとき、毎日の食事の献立にはたと困るときがある。立ちすくんで、なにを食べたらよいか考え込んでしまう。
そんなときに毎シーズン出してきて読むのが、佐藤隆介編「鬼平料理長」(文春文庫)です。今なら夏のページを開く。いちばん始めが「生鰹節」(なまりぶし)です。最初に「鬼平犯科帳」の一節がある。このページは「狐雨」。
「油揚げを、どのようにして召し上がられます?」
「生(なま)でよい。生で、生で、生で」
という、狐に憑かれた男と鬼平夫人久栄の会話。このシリーズでわたしがいちばん好きなシーンが引用されている。そこで、今日の献立は「生鰹節」をひとつ入れよう。エンドウ豆か絹さやと炊くとしよう、という具合になるのです。
「軍鶏(しゃも)の臓物鍋(もつなべ)」も軍鶏でなく、かしわで代用するのだが、初夏の味。数年前までは黒門市場でかしわの臓物を買ってきて、友人を呼んで豪快にビールを飲んだもんだ。