杉谷 久美子
前作『バースデイ・ブルー』から6年、待ちに待ったヴィク・シリーズの長編『ハード・タイム』が、2000年の暮れにやっと手に入った。いままでの作品と違って最初はとっつきにくかったが、数章読んだところで俄然おもしろくなり没頭してしまった。年が明けてから再読し、それから何回も読んだ。サラ・パレツキーは『バースデイ・ブルー』の後、シリーズを離れて『ゴースト・カントリー』を書いたことによって、いっそう力強い作家になってヴィク・シリーズにもどってきたと思う。
映画会社グローバルスタジオが「シカゴの舞台裏」という番組に出演させるために、シカゴ出身の人気女優レイシー・ダウェルを送り込んできた。ホスト役は“シカゴを裏返してみせる男”マリ・ライアスン。そのお披露目パーティがゴールデン・グローで開かれる。私がとっつきにくかった理由は、パーティ場面のマリ・ライアスンの変身ぶりだった。シリーズの最初から登場していて、社会悪をあばく記事を書く新聞記者として、ヴィクとともに危ない橋も渡ったマリだから、口げんかは絶えなくとも安心して読める登場人物だった。特ダネのため、社会悪をあばくため、がんばってきたマリだが、時代が変わり、マリが書いてきたような新聞記事はもう必要とされなくなった。埋没してしまうか、ここで頭角を現すかの境目で、頭角を現すべくマリはトレードマークのヒゲを剃りテレビ・レポーターの道に進んだ。その転身祝いのパーティにゴールデン・グローを選ぶことはないと思うけれど、いまはこういうバーを知っていること自体がおしゃれである時代なのである。その転身について、ヴィクは、【彼はわたしよりいくらか年上で、四十台に入った人間を企業は足手まといとみなすようになる。給料は高いし、健康保険を使いはじめる年齢層に入っていくからだ。】そして、ヴィクの仕事と同じように彼の取材範囲がシカゴに限られているので不利だとも言っている。だからマリの転身をせめられないのだが、転身しないで踏ん張っているヴィクの立場からはなおさら敵視してしまうことになる。
そのパーティでマリにグローバル社の専属弁護士アレックスに紹介される。ロースクールの同級生だと言われて思い出すが、彼女は整形し名前も変えていた。ロースクール時代は先鋭的な活動家でヴィクを労働者階級出身の人間だから闘えとアジっていた人間だが、いまは体制側に大変身を遂げている。
サラ・パレツキーにとっても昔からの友人が変身していく過程をつぶさに見た時代だったと思う。才覚がある人間だからこそ体制側に求められるわけだし、与えられたり勝ち取ったりした仕事のおもしろさに、さらに成功の甘い香りがつけば酔いどれてしまい、昔の知り合いが踏ん張っていることがちゃんちゃらおかしくなる。そんな人間をマリとアレックスで現しているのだなと思った。
レイシーの大ファンであるエミリーの希望で、ヴィクはこのパーティにメアリ・ルイーズ・ニーリイと3人で出かけてきた。メアリ・ルイーズは元警官だが、『バースデイ・ブルー』の最後で警察を辞め、ヴィクの仕事を手伝いたいと申し入れた女性である。エミリーを暴力をふるう父から2人の弟とともに引き取っていっしょに暮している。
サインをもらってご機嫌なエミリーとメアリ・ルイーズと一緒に帰る途中で、ヴィクは道に倒れていた女性をあやうく轢きそうになる。その女性がこの小説の鍵となるフィリッピン人のニコラ・アギナルドである。ニコラを避けた愛車トランザムは消火栓に激突する。病院に運ばれたニコラは死亡した。彼女は女囚で、クーリスの女子刑務所から治療のため病院に移されていたが、洗濯物のトラックに乗って逃亡したという。それから48時間後にシカゴのノースサイドにもどり、どこかの悪漢に出くわして命を落としたらしい。翌日ヴィクは2人の刑事の訪問を受けるが、そのひとりレムーア刑事にしつこくつきまとわれることになる。
殺されたニコラは警備プロバイダーの経営者パラダインの家庭でナニーをしていたが、ミセス・パラダインのネックレスを盗んだかどで逮捕されていたのだ。ヴィクはパラダインの家に出かけ、そこで息子のロビーに出会う。母親と娘たちはオリンピックを目指して水泳の練習をしており、マリの雇い主の妻アビゲイル・トラントもいた。ヴィクの正体を知った彼らに追い返されたが、ロビーだけが内密にヴィクの質問に答えてくれた。ロビーは太っておりみんなに馬鹿にされていたが、ニコラだけがそうではなかったという。ヴィクはコンピュータでパラダインを調べる。
そこへパラダインから呼び出しがかかる。なんとヴィクを高給で雇おうという。ヴィクのなにからなにまで調べ上げていたのだ。【「年間収益が出費に追いつかない状態で、何を頼りに探偵家業を続けているんだね」わたしはにっこり笑って立ち上がった。「理想主義と純真さよ、ボブ。それから、いうまでもなく、次に何が起きるのだろうという好奇心」】このセリフこそ、ヴィクがヴィクであるところのものだ。
ヴィクと仕事場をわけて使っている彫刻家のテッサが、アレックスを連れて得意げなマリに声をかけられる。【テッサは裕福な両親に連れられてジェット機で世界を飛びまわっていた歳月に身につけた、一種の丁重な拒絶を彼に示した。敵の急所に噛みつく必要のない人間を、わたしはいつもうらやましく思っている。】テッサの母は白人男性のバリケードを破って、法律の世界で高いキャリアを手にした黒人女性である。高価な服を着て申し分のないピックアップに乗っているテッサに、ヴィクだってちょっぴりでも親の遺産があったらなあ、と思うこともあるのだ。やっぱりヴィクはその場で相手の急所に噛みついてしまう。アレックスにヴィクは言う。【「あなたはバリケードを離れて重役の会議室に向かった。わたしは警官だった父親のブルーカラーの仕事から離れることができなかった」】
ヴィクに提供するという金額は大きかったが、それはグローバル社のテーブルから落ちたパン屑を拾うようなものだ。用件はレイシーの幼なじみのフレナダという男がレイシーにつきまとって困るので、調べてほしいというものだった。調べてもフレナダは堅実な生活ぶりなので、大金を払って追い払おうとするグローバルの意図を知ろうとする。
ヴィクはニコラの背景を知りたいと調べ始める。ニコラを轢きそうになった場所で知り合った少女たちから刑務所から逃げた人間から話を聞く男だというモレルの名前を聞く。少女に連絡を頼むとモレルから電話があった。会って話をしたいということでモレルとワインバーで会う。モレルはここ10年くらい政治犯をテーマに執筆しているという。ヴィクがニコラについて聞くと、もうこの返事だ。【「きみ、いつもそういうドンキホーテ的な性格なのかい、ミズ・ウォーショースキー。刑務所から脱走した貧しい移民の死を調査するために人生を費やしているのかい」】カッとしたヴィクに謝ってモレルは誰にヴィクのことを聞いたらいいかと聞く。それも道理である。ロティの名前をあげて、彼のほうの身元保証人も聞いた。その帰り、どの程度ドンキホーテか知りたがるモレルに【「あの最新型ポンコツ車が見える? ああいう車しか乗りまわせないって程度にはドンキホーテ的よ」】と衝突して大破したトランザムの後に乗っているポンコツのスカイラーク(愛称:錆び錆びモービル)を指さす。モレルの車はホンダで、なめらかに行ってしまう。【拷問の犠牲者について執筆をつづけ、かなりの金を稼いでいるにちがいない。車は真新しい、しかし、それが何を証明するというのだ。強い主義主張を持った人間だって暮らしていく金が必要だ。】
新聞のインタビュー記事によるとモレルは50歳くらい、キューバ生まれでシカゴ育ち、モレルという姓だけしか使わない。ニューヨーカーに連載された記事でピューリツァー賞をもらっている。ロティがモレルの書いた本を持っていた。チリとアルゼンチンで姿を消した人々のことを書いた本だった。
ここで私が読みとったのはモレルの立場がサラ・パレツキーだということだ。ヴィクという闘う探偵を書いて世界中の女性を励ましているサラ・パレツキーは、立派な家を持ちジャガーに乗っている。このへんを読むとなるほどなと思う。
モレルと会い用件をすませた後「きれいな足だね」と言ったあと、モレルはあわてて自分の車に向かっていく。【お世辞を言ったりしたら手榴弾を投げつけられる危険があるとでもいうように。】だんだんヴィクに興味を持っていくモレルが感じよい。
何者かがヴィクの事務所を荒らしヘロインを置いていった。見つけてトイレに流したあと警察に電話すると、レムーア刑事がやってきてヴィクがヘロインを隠し持っているとたれ込みがあったと言い、調べるが現物が見あたらず帰っていく。同時にフレナダの工場でもヘロインが発見された。
翌日フレナダと名乗る男から電話があった。罠かもしれないと思いつつヴィクは工場へ出かける。裏をかいてなにか探れるかもしれない。しかし、レムーア一味が待っていた。追われて工場の天窓から下に走っている有蓋貨車に飛び降り危うく逃れる。今回も活劇シーンが多いが、最初の山場である。
メアリ・ルイーズに電話すると【「あなたのでっち上げた事件のために、わたしの人生を危険にさらすわけにはいかないわ」(中略)「ちょっとヴィク、脳ミソを使いなさいよ」】と言われてしまう。マリは変わってしまい、今度は信頼しているメアリ・ルイーズが痛烈な言葉を吐いて去っていくのだ。だが、ヴィクにしたら【じっさいは道路に倒れてた女性を助けようと思って車を止めただけ」】からはじまったので、でっち上げでもなんでもないのに。
フレナダが殺された。ヴィクはフレナダの衣料工場で作っているグローバル社のTシャツに関してなにかあったと推理する。ニコラが殺されたとき着ていたのも同じTシャツだった。ヴィクはフレナダが通っていた教会のルー神父を訪ねる。ルー神父はフレナダを信頼していた。そしてレイシーを呼び出して話を聞く。
ニコラが入れられていた刑務所クーリスを訪ねて刑務所長と話すが、はかばかしくない。家に帰ると家出したロビーがやってくる。両親は息子を男らしくするため軍隊のキャンプに送り込もうとしていた。彼を泊めてやったのだが、誘拐罪として翌日レムーアに逮捕される。警察でヴィクはレムーアに思い切り殴打される。雑居房に入ったヴィクは女囚たちの賞賛混じりの声の中で一夜を過ごす。そして明くる日はクーリス送りとなる。
普通ならここで保釈を要求するところだが、弁護士のフリーマンの説得にも応じず、ニコラが殺された真相を知りたいヴィクは刑務所に入って囚人になることを選ぶ。サラ・パレツキー自身が書くのがつらいと言っていた章である。モレルに腕時計型の隠しカメラを内緒で差し入れてもらい、所内での違法行為を撮影していく。看守に殴られながら、女囚たちと親しくなって話を聞き出す。そして手紙の代筆や公式書類を書く手伝いをして信頼を得ていく。【クーリスでわたしの身を守るのに本当に役だったのは、この手紙の代筆だった。わたしが力を貸した女性たちがいつしか非公式の監視グループを作り、トラブルがひそんでいると、それを警告してくれるようになった。また、手紙のおかげでニコラと縫製室について質問できるようになった。】
そしてついに殺されたニコラがいた縫製室で作業することになる。ヴィクに与えられた作業は布の裁断だったが、別の部屋へ忍び込むとレイシーの顔がプリントされたTシャツが縫製されている最中だった。写真は撮ったものの、勝手に縫製室に入ったことでスタンガンで殴られ蹴られ、ヴィクは意識を失ってしまう。目が覚めると独房に入れられ足かせがはめられている。やがて車に乗せられ道路に放り出される。彼らはニコラと同じことをヴィクにもしたのだ。
ヴィクは拷問に痛めつけられた人たちのための施設で目を覚ました。なんでここに? と聞くヴィクにロティが言う。【「あなたはさんざんな目にあったのよ。権力者のなすがままにされて、電波の武器で撃たれ、殴られ、それからベッドに鎖で縛りつけられ……。それこそ拷問といっていいと思うわ、ヴィクトリア」】
ヴィクは退院して回復にむかっているのをパラダイン一味に知られないように、秘かにルー神父の教会にかくまってもらう。
モレルが写真を現像してきた。これで、刑務所でTシャツを作っていたことが証明できる。イリノイ州の法律では刑務所は刑務所の組織の中で販売する製品しか作れない。パラダインとグローバル社のトラントは刑務所を資本金のいらない工場として目をつけた。そして言葉のあまりわからない囚人をそこで働かせていた。【「ニコラは下の娘が喘息で死んだことを知った。もともとは、その子の病院代を払うために借金がかさんでネックレスを盗んでしまったのよ。死んだ娘に会いにいって、自分の手で埋葬してやりたいと思ったけど、看守たちから嘲笑されただけだった。思わずカッとなって、小さなこぶしでこの男の胸に殴りかかった」】そのニコラをスタンガンで殴り蹴って独房に入れたが、まずいと思ったか病院に連れて行ったものの、多額の手術代をかけても命を落とす危険があるというので、実家のアパートの付近に放置し、病院を脱走して家の近くで車に轢かれて死んだというように見せかけたのだ。
フレナダの死因はわかったが、パラダインが殺したということは立証できない。なんとしてもパラダインをやっつけなけらばならない。ヴィクはモレルに協力してもらい、パラダイン家の主催する水泳大会にもぐりこむ。パラダインの書斎に忍び込んだヴィクはコンピュータを立ち上げ、クライアントのリストを探しだし、自分が持ってきたリストも入力してパラダイン名義のメールを送る。そして送信済みからゴミ箱に捨てて、さわったのがわからないようにした。続いて彼の受信箱をのぞいているうちに、廊下の監視カメラにパラダインとアレックスが写る。あわててクロゼットに飛び込むと、2人は妻がプールにいる間のお楽しみにきたのだった。パラダインはその行為をビデオに撮っている。2人が立ち去った後、受信簿をコピーし、ビデオも失敬して帰る。
ヴィクがコンピュータを使いこなしているのは、予定をパームで確認したり、インターネットで調査するのが日常の仕事になっていることからわかっているけれど、ハッカーのようなことをするのに、相手の書斎のコンピュータに直接行くのには笑ってしまった。しかし、車を止めてじっと待っているモレルの身になるとたまらない時間だったろうと思う。
翌朝の新聞には、パラダインが彼の会社の経営責任者から退くというeメールをクライアントに送っていて、パラダイン本人は否定に必死になっている、という記事が大きく載っていた。本人がメールを否定したらしたで、部外者が彼のコンピュータに侵入できたのは警備会社の信用にかかわることである。ここで、エイジャックス保険社長ラルフ・デヴローが語っている。第1作『サマータイム・ブルース』で登場したときは予算担当責任者だが、いまや社長になっての登場である。【「当社の見るところ、(中略)パラダインが辞任の件で嘘をついているか、さもなくば、ハッカーがセキュリティ・システムのすべてをすり抜けることに成功したか、どちらにしても、企業トップが不安定な状態にあるとすれば(後略)」】新聞記事は続く。アレックスのコメントがあり、このハッカーはパラダインに恨みをもつ私立探偵ウォーショースキーだと言っている。
そこで、ヴィクは次の手を打つ。ルー神父に部屋を貸してもらいメディアに真相を話すことにする。写真を編集してビデオにして見せつつ話す手配をしたところへ、夜になってミスタ・コントレーラスとロビーと犬のペピーとミッチがやってきた。ロビーはキャンプを脱走してヴィクを訪ねてきたのだったが、不在なのでコントレーラスがここへ連れてきたのだ。ヴィクの住まいを見張っているレムーア一派がパラダインに知らせてすぐやってくるだろう。ミスタ・コントレーラスは紙袋を渡してくれた。【「あんたが逮捕された日から、大事にとっといたんだ、嬢ちゃん。そろそろ必要だろうと思ってな」それはわたしのスミス&ウェッスン】だった。ミスタ・コントレーラスの名セリフはまだまだある。
夜中にミッチの吠える声で目を覚ました。パラダインとレムーアが奇襲をかけてきたのだ。パラダインはコントレーラスを捕まえる。銃を突きつけられながら、助けようとするヴィクに【「わしの人生であんたみたいな人はいなかった。七十九年生きてきたけどな。あんたが弾丸を受けて、そのおかげでわしが八十歳の誕生日を迎えるなんて、そんなのごめんだよ」】と言う。ほんとに泣かせるコントレーラスさんである。格闘が続きミッチがパラダインに噛みつき、コントレーラスは助かり、そしてミッチは肩を撃たれるが、たいしたことはなかった。甘かろうがなんだろうが、犬が死なないように書いてくれてほんとにありがたい。最後の山場はレムーアの死によって終わる。ほっとした。これほどいやな警官はいままで出てこなかった。シリーズ最悪の男じゃないだろうか。後ろで糸を引くヤツの方が悪いにしても、これだけ現場で悪いのっていなかったように思う。
翌日メディアを招いて説明会を教会の図書室で開いた。ニコラの死からパラダインの怪我まで、そしてグローバル社が刑務所であげていた不当な利益、刑務所の実態などなど。フレナダやニコラやヴィクのことを気にかけてくれる者は州検事局にはひとりもいないが、ルー神父はこの街の伝説的人物だ。ボクシングをやったことのある警官はだれでも知っている。状況判断したパラダインの部下は寝返ってすべてを話した。ルー神父はロビーを教会で預かることにして、取り戻しにきた母親から反対に教育費を引き出す。そしてボクシングを直接教えることになった。
今回新しく登場してヴィクを支えるのがモレルとルー神父だ。次回の活躍が期待される。
マリはロティを通して入院中に花束を贈ってくれたりしたが、説明会のときに側に来て、モレルの存在に気がつき出ていってしまう。これからどうするのだろう。
メアリ・ルイーズ・ニールイがある日やってきて、脅迫されていたことを話し、もう一度やりなおさせてほしいと頼む。ヴィクは【「(前略)つらかったのは、あなたがわたしを非難したってこと、(中略)わたしを信用してくれて、どうしてわたしから離れていくのか説明してくれてれば、ずいぶん違ってたでしょうに」】こう答えるが、結局3カ月事務所で試験的に働いてもらうことにする。
事件解決後、ヴィクは眠れぬ夜を過ごす。モレルは無理強いせず選択権をヴィクにまかせてくれた。食事や野球につきあったりしながら、夜は犬と過ごす日が続く。訴訟もたくさんあって忙しい。ある日アレックスが訪ねてくる。ヴィクはパラダインの撮ったビデオと引き替えに悪質な看守をクビにする取引をする。
ルー神父から一部始終を聞いたレイシーが、ヴィクが幼友だちのフレナダを守ろうとしてくれたことに対して料金を払うと言い、4万ドルの小切手を渡してくれた。それで新しい車を買い、弁護士のフリーマンにも料金の一部を支払うことができた。去っていったクライアントが元気になったら仕事をしてくれと言ってきた。
ヴィクは刑務所で知り合ったミス・ルビーを訪ねる。あんたはヒーローなんだよと彼女は言う。ひどかった看守は放り出され縫製工場は閉鎖されたそうだ。ヴィクはこっそり化粧品を渡して仮釈放の手続きをすることを約束する。
帰りはモレルのところに真っ直ぐ行った。モレルが言う。【「(前略)きみがここイリノイ州の刑務所の女性たちにある程度の救いをもたらしたことはまちがいない。そして、君を蹴りつけたあのハーティガンという悪党は─多分刑務所に入ることになるだろう。ニコラ・アギナルドの殺人罪によるものではないにしても、多少の正義はあるじゃないか。トラントとパラダインが大手をふって歩きまわっているのは事実だよ。しかし、トラントは結婚生活が崩壊していしまったし、映画会社が彼の大幅な降格を考えている。チリに飛ばされるらしいって、きみもレイシーから聞いただろ。それからアヒルの子みたいにルー神父にくっついているロビー・パラダインを見てごらん。あの子の人生の喜びをきみもいっしょに味わうといい。きみが手に入れて、あの子に与えたものなんだから。いいね」「いいわ」わたしはつぶやいた】この日からヴィクはモレルとときどき夜をともに過ごすことになり、物語は終わる。次作がたのしみだ。
『ハード・タイム』ではサラ・パレツキーはいよいよ鮮明に、自身の思想のよりどころを労働者階級の側に置いている。そして、マリやメアリ・ルイーズのような同志と言ってもよかった人たちが、寝返ったり、ひるんだり、足を引っ張っても、信念を変えないヴィクを書くことで、自分もまた闘い続けることを私たちに知らせている。
『ハード・タイム』を何回も読んで感じたのは、サラ・パレツキーはたぐいまれな作家であり、また、幸せな作家だということだ。“たぐいまれな”という意味は、労働者階級の側に身を置いて書いているということをヴィクの行動を書くことで明言していることであり、“幸せな”という意味は、作家が書いたメッセージがストレートに読者にとどいているということである。現代の作家でこんなに読者と結びついている作家は他にいるだろうか。うまい作家はたくさんいるだろうけれど、これだけ主人公が共感され、支持され、主人公の痛みが読者の肉体にまで及んでいるような作家を他に私は知らない。