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「ハード・タイム」を読んで

『ハード・タイム』雑感

喜多 篤子

 『ハード・タイム』待って待って待っていて、発売とほぼ同時に買ったのに、読み出してからは今までにないほど時間がかかってしまいました。私自身がちょっと疲れていたこともあって他の本もほとんど読んでいなかったこと、最初の部分がなんとなく何かが起こっているようだけど、はっきりしないし遅々として進まない感じがあったのでそのせいかなと思っていましたけれど、読み進んでいくうちにだんだんとわかってきたのは、辛い目にあいそうなヴィクを見たくなかったということでした。ヴィクが刑務所に入るということは読む前からの情報でわかっていましたし、とにかく下劣なレムーアのような刑事がずっとヴィクに付きまとっているものだから、どうもそんなヴィクを見るのがこわかったようなのです。でもまあ読み進むうちに、先を知りたいという欲求とヴィクはどんなことも乗り越えるということを信じて、ミスタ・コントレーラスと一緒にクーリスに行ったころからはどんどん読んでしまいました。
 読んだ後の訳者のあとがきでサラさん自身が、あのクーリスの場面を書くことが辛かったこと、あとで読み返すのも苦痛ですと語っているのを知り、とても感動しました。と言うのは、ヴィクを創り出したのはサラさんだけれども、ヴィクはサラさんという創造主の手から離れ、ひとつの確立された人格となって作品の中で生きているんだということをあらためて確認したように思えたのからです。それはさらに大学時代に、サルトルが「作者は神ではない」というようなことを論じた評論、多分モーリヤックについて論じたものだったと思いますが、を学んだ時に、小説を書くということは、作者がすべてを知って計画しお膳立てをして作られるものではなくて、フィクションであるにもかかわらず、現実の世界のように人も自然も社会も変化していく中で、作者が自分の思想をまとめ上げていくものなんだということを知った、ひとつの小説を書くということは、ひとつの人生を生きるように大変なことなんだと本を読み始めて初めて考えた感動を思いおこさせてくれたからだと思うのです。そして、自分が生み出したヴィクを、ハラハラしながら見守っている私たち読者と同じようにハラハラしながら見守っているサラさんがいるということで、サラさんにとても親近感を感じたからでしょう。

 ヴィクが最初に登場したときに年齢はいくつだったのか正確には覚えていないのですが、初めてヴィクを読んだ私自身の年齢とほとんどかわらなかったと思います。でも今ではヴィクの世界の方が時間の進むのが遅いので、私は40の半ばを過ぎたのにヴィクは40になったばかりということになっています。私は年齢的にはサラさん自身とヴィクのちょうど真中くらいかなと思っています。このことは女性であることと同じくサラさんの作品に深く共鳴できるひとつの要因のような気がします。
 今回読んでみて一番心に残ったのは、ヴィクがクーリスで書いたロティへの手紙です。「何かもっと不安な思いに駆り立てられているのです。自分の手で問題解決にあたらなければ、この先ずっと悲惨な無力感に悩まされるだろうという、恐怖のようなものに。」ヴィクの生き方がよくあらわされていて、涙が出そうになりました。こんなヴィクだからヴィクの人生はハードタイムの連続したもので、ヴィクはそのように生きることでヴィクなんだということが強く感じられました。あんなにつらい体験をしたヴィク、立ち直れるのだろうかと心配です。自分の目でもう一度クーリスへ確かめに行ったヴィク、モレルとともに静かな時を過ごすヴィクに少し安心はしたものの、モレルも今回のハードタイムでは静かな人だったけど根本的には激しい信念の人のようだから、いつかまた危険な地へ赴いて、ヴィクが悲しい思いをするのではないだろうか、と今からハラハラしています。

 今回の『ハード・タイム』で安心したのは、ミスタ・コントレーラスやちょっとぎくしゃくしていたロティとの心配や不安やイライラを抱えていても安定した優しい関係と、ヴィクが自分の服装について、またまた気にして、話し始めたこと。自分の服装についてはシリーズの最初の何作かは、結構気にしていて、依頼人と会う場合は、キャリア風にびしっと決めてとか、女を意識し過ぎるような気がして、私はあまり好きではなかったのですが、作を重ねるごとに余裕がなくなってきたのかのように、あまり服装やおしゃれの話がでてこなくなったことがちょっと気になっていたのです。それがまたまた気にするようになって、何故か安心しました。それとメアリ・ルイーズ・ニーリイ、結局子供のために防御に入ってしまって、ちょっとがっかりでしたが、はじめからバリバリとヴィクとともに戦うのでは、彼女の若さと、子供たちへの愛情、そして誰もがはじめから強くはないということを考えると非人間的であろうと、やはり人間的な弱さを持ったメアリがそれでもヴィクのそばで仕事をしたいということに彼女の役割があったのだとサラさんの人物設定のうまさ、深さに感心しました。本当にサラさんは女性を描くのがうまいと思います。住む世界は違っても共感できるところがあるアビゲイル、完璧なアビゲイルを前になんとなく意気消沈するところなど、思わず笑ってしまうほどわかります。死んでしまったニコラ、バラダインの妻エリナー、レイシー、アレグザンドラと登場する機会が少なくても女性は生き生きと生きています。でもそれに比べると男性はちょっとという感じがしました。バラダインはただのサディスティックなやり手ビジネスマン、トラントは何かわけがわからず、フレナダはきっと魅力的な人でだろうから、もっといいところがあってもよさそうだし、女性たちに比べると弱いなという印象でした。謎の人モレルの可能性、ルー神父の大きな公正な心、そしてロビーの素直なやわらかい心は印象深いのですが。

 最後にアメリカって不思議な国だなあとつくづく思いました。クーリスの看守たちのような、人を人とも思わないような下劣な人間をつかって大もうけしようというような人々がいるかと思うと、グレーテ・バーマン・インスティテュートのように患者に対して手の握り方まで思いやって接する人々がいる。何かすべてがピンからきりまであって、そうした混沌とした社会だからヴィクがいるように思います。
 これからヴィクはどうしていくのでしょうか。また、これがヴィクと思えるような、懸命に生きるヴィクが見られるのでしょうが、どなたかのお手紙にあったように本当に今はヴィクにゆっくり休んでほしいと思います。


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