大蔵まきこ
Makiko Ohkura
ここのところ続々と、パトリシア・ハイスミスの作品が出版され嬉しい限りだ。『11の物語』(ハヤカワ文庫)を読んだのは2年程前か、その頃はこんなにも魅力のある作家があまり翻訳されていないのが不満だったが……。読み終えると、何故こんな事態になってしまうのだろうと、その不可解さに頭を悩ます。彼女は、日常と異常が易々と繋がっていく様を巧みに描いてみせる。代表作という訳ではないが、私が読んだ2つの作品からその不可解さを考えてみたい。簡単にストーリーを紹介する。
『扉の向こう側』(扶桑社ミステリー)に登場してくる父は、平凡な人物でそう尊敬されているという事もない。ところが、息子の病をきっかけに宗教にのめり込んでいく。どっかで耳にしそうな話だが、ここから破綻が始まり、自らの矛盾によって殺されてしまう。この殆ど狂信者になってしまった父は、神の権威を自分の背に貼り付け世間や家族から尊敬を得ようとしていたように見える。
『水の墓碑銘』(河出文庫)では、奔放な妻に裏切られ続ける夫が主人公だ。そんな妻でもそばにいて生活の体裁が整いさえすればと希う。時に周りから聖人とも見なされるような耐える夫だったのに、自分の冗談を実践するかのように次々と殺人を重ねていく。彼は目をつぶる点のある幸福でも満足できる筈だと、自分を納得させようとしていたように見える。
全くありふれた様子で登場してくる彼らなのだが、悲惨な結末を迎える。権威を持ちたかった父、現実的であろうとした夫、彼らのどこに理不尽なものがあったのだろうか? 朝のあいさつを交わす隣人のように共感できそうな人達なのだが……。
ナゾは深まるが、小説にもどると、いづれもさりげない書き出しである。『扉の向こう側』では、少年が川で石投げをしているシーンから一家揃った夕食へと移ってゆく。『水の墓碑銘』では、夫は妻の踊っている姿が嫌いで、それは彼女が夢中になりすぎているから……。
しかし、日常的なエピソードがいくつか重ねられていくうちに、彼らのいる空間だけが歪んでいるように感じられてくる。周りの人々などお構いなしに、自分の思いに閉じこもり執着の重力場のような歪んだ空間を築いてしまうのだ。そして、それは異常世界という出口を持つブラックホールの入口なのだ。
で、私は大丈夫だろうか? 歪んだ空間がありはしないだろうか? 自信がない。しかし、パトリシア・ハイスミスは異常に陥りやすい人間のタイプを描いてみせたのだ。要は思い込みの激しい人は危ないタイプのレッテル貼りをするような、そんな安易な作家ではない。又、人の思い込みの度合いなど、時と場合に応じいくらでも変化する。人間のタイプを分類するのは、無理に自分を安心させる時以外は、あまり意味がないのだろう。
ハイスミスの巧みさは、執拗なほどの人間観察に拠るのではないかと思う。大方の作家は作品にその意向や人物を感じさせるが、彼女からは凝視だけを感じる。そうしてできたのがこのような作品だとすれば、ハイスミスが描こうとしたのは人間の持つ意外な危うさだったのかもしれない。そして、どうにか日々を過ごしている私のような人間も、彼女の確かなペンの標的であったのかもしれない。今のところ、不穏な空間はなさそうだが……。この尽きないナゾがパトリシア・ハイスミスの魅力であり、私はどうも不可解さが大好きらしい。
1998年9月
写真はパトリシア・ハイスミス著「水の墓碑銘」と「太陽がいっぱい」、ともに河出文庫