大藏 まきこ
新聞や本で知るかぎり、ひどいと思ってもたいして動揺はしない。けれど、今年4月に近所で続けて女性が殺された。心身にふるえがくるようである。殺人事件なんて特異すぎて悪夢のようだが、眼をおおってしまうのではなく、できれば目覚めていたい。報道されたことや地元で聞いたことなどから、私なりに考えてみたいと思う。
4月19日5時ごろ、帰宅した高1の息子から「三島へ登校中の高校生が刺し殺された」と聞き、にわかには信じられない。通り魔なら三島へ通っている息子も被害にあわなかったかと思ったが、事件は沼津駅周辺で起きたとのこと。7時過ぎ高2の娘からの電話で、犯人がまだ捕まっていなくて危険だと学校から注意があったとかで、駅までクルマでむかえに行く。
テレビのニュースで、何十カ所も刺されてその高校生は殺されたという。あまりの執拗さに呆然とするが、又それゆえ恨みを持つ者の犯行のようにも思えた。そして、その夜10時前にH(27才)が神奈川県の警察に自首してきた。
翌日から沼津の事件が、テレビ、新聞で次々報道された。どうして高校3年生(17才)の女子が白昼堂々殺されてしまったのか、世間も驚いたのであろう。そして、次第に事件は明らかになった。Hとその高校生は半年ほど交際後別れたのだが、あきらめきれないHはストーカー行為(殺すとの脅し、交際を迫る1日10回もの電話、学校近くでの待ち伏せ、高価な贈り物)などを1カ月以上続けていた。あげくに、登校時に待ち伏せして脅すために用意した包丁で殺害してしまったのだ。
それから、Hの前歴も明らかになった。8年前沼津で元交際相手を何十カ所も刺す殺人未遂、3年前も東京で同様の傷害事件を起こしていた。なお、殺人事件の時、Hは21才で実刑2年6カ月だったそうだ。やりすぎかなと思いながらも見ていたテレビはHの実家まで写していて、ぼかしていても見覚えのある食堂だった。離れてはいたが、評判が良く私も2・3度行ったことがある。その後、あそこの店だったんだと周りで話題になった。
殺された高校生の遺族も取材されていた。そのお父さんは、「33カ所もズタズタに刺されて、口にまで包丁を入れられ、口が切り裂かれていた」と声が震えていた。あまりのすさまじさに、暴力被害について私自身解ってなかったと痛感する。昨年「暴力」の特集号でストーカーも取り上げたが、殺人についてまでは書かなかった。どれほど危険か本などから読み取ったとしても、ここはアメリカじゃないにだからと、私はすっかりタカをくくっていたのである。
数日して、同時代の子ども達や知人からその高校生のうわさが伝わってくる。それは中傷めいていて、今時の女子高生パッシングの延長線上にあるよう感じられた。しかし、そんな事は殺される理由にならない。彼女はどこの街でも見かける流行好きな普通の少女だったのだろう。ただ暴力の激しい病的な男も世の中にはいるという事については、極く普通にあまり知らなかったのだろう。だから、彼女は不運だっただけで、どの少女が被害者であっても不思議でない事件だったと思う。
又、彼女の友人によると、少女は昨年に暮れからHによく殴られていたが、昔の優しかった彼にもどってほしいと、耐えていた期間もあったようだ。前向きで優しいと言われる人柄をしのばせるエピソードだが、DVの被害者によく見られる心理でもある。
それにしても、次々ストーカー行為を起こしてきたHはどんな男だったのか、報道は追求する。意外にも小学校の時はバレンタインチョコを一杯もらうほどの明るい人気者だったそうだが、中学ではたまにキレやすい一面も見せ、高校は3年で中退。「そんなに明るかった子が、どうしてあんなに変わったんでしょうか?」という取材に、かつて近所だった女性は、「あそこは夫婦ゲンカが多かったようです。それでじゃないでしょうか…」と答えている。けれど、私は首をかしげる。本当にそうだったのか、そう呼ばれてきた別の暴力があったのか、又は生育歴とは無関係な素質のようなものか、もっと別の原因か、あるいは複合したものであったのか…。専門家でも原因を究明するのは難しいようだから、あまり簡単に決めつけない方がよい。ただ事件が詳しく解明されたら、そういう情報は公表されてもよいのではないかと思う。私も2人の息子を持つ身であり、いささかの不安を感じる。
けれど、Hの親も悩んではいたのだろう。Hが働かないので父親と激しい口論をしていたと、近所ではよく知られていたようだ。働いてさえいれば立ち直れるというように、父親は思い込んでいたのだろうか…。しかしながら、起こした事件の女性への異常な執着。暴力について考えてみるならば、Hに必要だったのは、更正や就職よりもまず精神的な治療だったように思える。この点について、警察や裁判所も考慮しなかったのではないだろうか? 今後は事件の病理性を捉えた対応を考えてもらいたい。治療、矯正、ケアをも含めないと、ただ罰するだけでは危険を無くせないし、又危ない男は死刑にすれば安心という安易で排除的な考えも広まっていきかねないと思う。
沼津の事件から2日後の4月21日、三島市の山林で女性の絞殺遺体が発見された。次々とこんな事が起きて、めまいがするようだった。前回とは異なり、23日まで被害者の名前すらも不明だったが、判明すると交友関係からN(38才)が逮捕され犯行を認めた。
遺体が発見された現場の映像を見ていて、私は腰を抜かしそうになった。2日ほど前、用があって訪れた山林がそのまま映っていた。「ここらじゃ、竹の子が一杯出そうですね。」とそこに居た人に軽口をきいたのだが、毛布にくるまれた遺体を発見したのは地元の竹の子掘りの人であった。又、犯人は私と同じ函南町(4万人弱)の住民でもあった。
電話で話していると、友人がこの事件にふれ、この男の顔には確かに見覚えがあるという。どっかで会った気がするとか。数日すると、子どもの話から娘の同級生にNの子どもがいたことが解った。友人の娘も同学年でいたので、学校行事などでNに会っていたのだろう。かなしいのは、まだ地元の小、中学校に通うNの子どもたちがいることだ。「自分のお父さんが人殺しなんて…」と、娘は同級生の境遇に言葉を失う。ただし、2・3年前に離婚して母親の方に引き取られているが、夫の暴力が原因になっているようだ。一方被害者の側は、片親になっていた6才の娘は母親までも奪われてしまった。事件は当事者の被害だけではすまない。痛めつけられる裾野はとても広い。
この事件は男女関係のもつれと言われるが、この女性(27才)は一旦別れると言いながら、再びNの家に行き、帰ろうとしたところを殺されてしまった。まさか自分がそんな目に会うなんて夢にも思わなかったためだろうが、何故そんな複雑な行動を取ったのか疑問が残る。けれど、もし彼女が「別れの暴力」の危険を知っていたら、この事態はさけられたのではないだろうか?
昨年近所で女性が亡くなり、DVによるのではと疑われたが、別れ話の直後のようだった。暴力的な男と別れる時には一段と危険が高まる。そういう男はどんなことをしても女性を手放すまい、自分の支配から自由にさせるまいという執念に取り憑かれているからだ。現にNは、「この女性を他の男には渡したくない。自分のものにするには殺すしかないと思った。」と供述している。(このような事件は口論のエスカレートから起きると思われがちだが、加害者は妄想の中で幾度も相手を殺しているそうだ。)
男女の別れというと痴話ゲンカぐらいに見なされがちだが、中にはそんなレベルではすまない相手もいる。もしみんな気楽に別れられるなら、どうしてDVの被害者は長年痛めつけられながらガマンしているだろうか? 女性が無力でマゾヒスティックなためなのだろうか? けれど、もしそうだったとしても、それは虐待の結果であり、傷跡でしかない。問うべきは、加害男性の信じ難い暴力なのだが、虐待の実態はほとんど知られてないから、つい手っ取り早く(習慣的に)女性に追求の目を向けがちになる。その実態は聞いているだけでも耐え難いほど酷く破壊的である。
といっても、別れの危険ばかり強調したいわけではない。相手が暴力的な場合には、細心で最大の用心が必要だ。同時にシェルター、弁護士、警察などの協力も得た方がいい。もちろん、理解のある友人や家族の協力も欠かせないが、本人が脅え悲観的になりがちなのに対し、第三者は楽観的でやや用心が足りないこともあるようだ。
報道では沼津の事件が被害者の年齢とストーカー行為によって注目を集めたが、2つの事件は「夫、恋人からの暴力」の結果だから、ともにDV事件と見なすべきだろう。DVでは数知れない女性が痛めつけられているのに、社会には理解も支援もろくになく放置されている事態の最悪の頂点になったと、私には思えてならない。
思い返してみると、昔から別れ話で女性はよく殺されていた。新聞の片すみには小さな記事がのっていたものだ。けれど、その頃は不運な話か男を怒らせるようなおろかな女性の悲劇としか感じなかった。人ひとりが殺されてしまったという無念さや重大さはなく、気の毒だけど仕方がない、ほとんど猫の交通事故死と同じだった。女性に対して私は冷酷だった。DVが社会問題だと解るまでは、女性ゆえの苦悩など本人の甘えだと見なしてきたのだから。
近頃やっと私も知恵がついてきて、社会の眼もいく分変わってきたようだが、偏見はまだまだ根強い。例えば今回のように男女関係で事件が起きた場合、被害者であっても女性はモラルを問われる。強姦神話などでも明らかなように、女の落ち度は男の免罪符とでも言いかねない偏見が世間にあるためだろう。その結果、加害者男性には寛容で、被害者女性には大変厳しい状況が生じる。そんな中で被害者は声など出せないから、実態は社会に知られないままになり、被害の破壊性について鈍感で無頓着な人が増えていくのだろう。
又、暴力への無関心さは、考えることを避けたいという気持ちからも生じるのだろう。まともな多くの人は、それを望みも好みもしない。ギョッとする酷いことなど起きてほしくないだけだろう。しかし、考えることを避けても、現実の暴力を避ける保証にはならない。安全から遠ざかりかねない。
では、どうやって暴力を防ぐのか、考えてみよう。女性の場合はあまり腕力志向がなく、そのかわり「かばう人さえいてくれれば安心」と思っていることも多いのではないだろうか? 私も白馬のナイトに憧れないわけではないが、救い主であるはずのナイトがたまに危険な支配者だったりするから女性は混乱し消耗するのだ。暴力を避けるために男性を頼るのは黄信号である。
暴力が心配される時、信頼できる同性か親切な機関に相談するとよいのだが、誰しもが身近に頼もしい支援があるとは限らない。もちろん、被害を防ぎ救援するための社会制度が整うべきだとは思うが、それにはまだしばらくの時間がかかるだろう。(これを求める女性の声の大きさ次第だろうが…。)又、もしできたとしても、24時間どこでも個人を守るというのは無理だろう。こうなってくると、「天は自ら助くるものを助く」である。
そのためには、不快感が伴うかもしれないが、まず「暴力」という相手を知ることから始めよう。無知や偏見は危険を増すだけだから。「暴力から逃れるための15章」ギャヴィン・ディ=ベッカー著(新潮社)を是非お勧めする。日本とアメリカのちがいはあるものの、暴力阻止を仕事にしている著者ならではの観察やアドバイスはとても役立ちそうだ。相手のどのような言動に暴力のシグナルを見出すべきかなど、具体的に書かれており解りやすい。
暴力への知的センスを磨いたら、次には身体的センスも獲得したい。「ラカス」は女性の安全を確保するため、アメリカで編み出された護身術の一種である。女性自ら考案しただけのことはあって、女性の体格、体力、心情に合っており違和感なく取り組める。このトレーニングは、様々な危険な場面を想定しながら実際に身体を動かしていいので、安全をより確実にしてくれるだろう。さらに、気づかないうちに暴力に脅えていたマイナスエネルギーが、このトレーニングによって消えていく時、多くの女性は身体内から生きる自信のようなものが蘇ってくるのを感じるだろう。ただし残念ながら、「ラカス」を受講するのはたやすいとはいえない。ある程度力のある女性団体が呼びかける形で開かれているので、都会中心である。女性運動が存在しているとはいえない地方では難しい。
せめて、いくらかでも似たものとして「CAP」を挙げたい。子どもを被害から守るために、アメリカの女性達によって作られたプログラムである。子ども向けとはいえ、人権の尊重から発送されているので女性にも学べる点は多い。いじめ、誘拐、性被害などの場面を寸劇で見せながら、どのように行動すれば安全でいられるのか、話し合い考えさせていく内容になっている。そして、「CAP」は地方にも広まりつつあり、学校などでも開かれているようだ。けれども、子どもを持たない女性は接する機会がないだろうこと、又女性自身の安全には関心が薄いのだろうかと、少しさびしく感じる。
現在私が知っているだけの安全策を挙げてみたが、従来から言われている防犯などもふくめたらまだあるだろうと思う。暴力を防ぐために、自分のかけがえのなさを心に刻みながら、各々の安全能力をより高めていきたい。
長々と書き連ねてしまったが、これらの事件の被害者は単にあわれな女性にすぎなかったのだろうか……。同じこの社会に生きている自分の位置や不安定さなどに、わずかでも彼女達と相似形のようなものがなかっただろうか? 見つめてもらえたらと思う。もし、貴女にまだエネルギーが残っているなら、もう一度このつたない文を読み返してみてほしい。
2000年5月31日