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Chissarossa の I LOVE CINEMA 9

〜ほ-ぉ、金髪座頭市!〜

 座頭市と言えば勝新太郎・・・その前にも後にもなし、って古参の映画ファンは誰しも思う事でしょう。今回も北野武(ビートたけしのコト、今ではこっちの名前の方がマイナーになっちゃったわね)は監督兼主役。北野武の演技は決して上手くないし、お話はいつもの時代劇定型、典型的パターン「座頭市」。何がどうって珍しくもないのに、目が離せないのが北野武の映画。もう亡くなってしまったけれど、いつも淀川長治は北野武をベタ誉めしてましたね。黒沢を継ぐモノ・・とか、映像美の監督とか・
・・とも言われてますし・・・。
 でも、わたくしには、なーんか違う感じなんですよね・・・どの褒め言葉もピンと来ないの・・・(武ファンの方怒らないで〜〜〜)・・・んー、何と言いますか・・・そう!!
 美味しい所を絶妙にさらって行く、その美味しい所のチョイス具合が、絶妙なセンスしてると思うんです!黒澤や小津のようなオリジナリティの凄さなんじゃなくて、これ真似してみようって思う所と、その組み合わせがステキ。例えば、バッタバッタと悪い奴等を切り倒す所なんか黒澤だし、中年の農婦役の大楠道代が縁側でポケーとしてる場面の絵になる感じったら鈴木清順のようだし、深作みたいだし、その他にもアッチャコッチャ色々交ぜこんであるんだけど、この交ぜ込み具合が非常によろし!なのよね。もちろん、誰でもその道の先人の影響は受けてるものだけど、それが、これは誰某ってポンと判るような具合になっているのが正直よね。そうそう、この座頭市でも、顕著にあらわれる北野武の言いたい事ってのが、其処かしこにちりばめられてるんだけど、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」的発想のまんま〜ちょっと笑〜!
 さて、これを良いで説明しようか、悪いで説明しようか・・・(物事はいつも表裏一体)・・・
 座頭市は、勿論座頭なので、盲で按摩師を生業としながら放浪している。杖は仕込み杖。物凄い居合いの達人である。本当は男なんだけれど女の格好してる子のことだって、「盲だから匂いで判るんだ」って言う。賭博じゃ、「音で判る」って言う。本物の悪が誰かだって、「盲だからこそ、普通では見えない事が見えるんだ」と言う。ラストシーンでは石ころに蹴躓いて、「目が見えたって、見えないものは見えないんだけどなあ・・」って台詞で暗転終了。呆れるぐらい単純で力強く、何度も同じ意味のメッセージをくり返している。もともとの「座頭市」というストーリーがそうなのではあるが、北野武のメッセージは如何にもあからさま、でも嫌味じゃないんだなあ。その台詞のタイミングが良いんだわね。
 だけど、北野武の真実ってなんだ?いくら誤魔化しても殺人は醜いもの、これでもかこれでもかとばかりに、あちらでもこちらでも容赦なく人を切り倒させる。子どもが大人の世界に放り込まれた時、体を売る事が悪だなんてナンセンス。ホモセクシャルも当然。結婚してたって別の人を好きになる。そんな本当の事を、目を閉じて見ない振りして過ごすのは簡単な事。だけど、現実はこんなに毒だらけの哀しい事実で占められているのさ。北野武の言いたい事は、「建て前ばかり言うんじゃない、その本音はどこにある?」だ。確かに、映画監督になるまでの彼は、その口下手さ故に、数少ない皮肉った言葉でしか表してこなかったし、社会や人の毒や歪みを己が傷つきたくないが故に、殊更無視して(穏やかに)生きている人々にある種の怒り(ふて腐れた態度?)を持って、その事実を暴きだし、ひたすらぶつけるだけだった。それで「赤信号、みんなで渡れば恐くない」・・・となるわけだ。確かに。本当。・・・で?だから渡っちゃうの?監督になった北野武は、それまでの彼と違って、その言葉の先にこそ真実があるというスタンスになったと思う。「赤信号でも渡るなら、渡るのを止めやしないが、それなりの覚悟はしてね。何が起っても自分の責任なんだよ。」ってね。お陰でやっと拙者も北野武という監督を認められるに至ったのである。
 物語は、三組の旅人が同じ宿場町に入るところから始まる。一人は座頭市、勿論ビートたけし(監督名は北野武、役者名はビートたけし)。二組目は浪人服部(浅野忠信)とその妻(夏川結衣)。三組目は旅芸者の姉妹。宿場町はやくざの銀蔵(岸部一徳)が仕切っている。梅(大楠道代)が町の路上で野菜を売っているが、銀蔵一家が法外な場代を請求し、争いになっているところを市が助ける。浪人服部が病気の妻のために飲屋で腕前を披露し、銀蔵に用心棒として売り込む。一方、梅の家に厄介になりながら賭博場で荒稼ぎする市は、偶然に梅の甥である新吉と仲良くなる。ひょんな事から市と新吉は旅芸人のおきぬ(大家由祐子)・おせい(橘大五郎)姉妹と知り合う。おせいは実は男性で、親の仇を探すために女旅芸人に身をやつしているのだった。その仇が銀蔵、商人扇屋(石倉三郎)だと判明、いよいよ三組の運命が走り出す。
 北野武は、何気ない生活の嘘を暴きたて、本当はこんなものだ〜と突き付けて来る。その事実とは美しさとは程遠い代物で、そんな事まで見せてくれなくていいよ・・・とさえ思ってしまうくらい。ここでは、どんな悪役にも言い訳が存在している。やくざの元締めも、その又大親分に拾ってもらって仕込まれた。なりたくてなったわけでもない、子どもを捨てる大人より余程良かろう。銀蔵も扇屋も何の気もない時には、子どもに実に優しいし、ひょうきんだ。市だって居合いの達人だが、敵の中、仕込み杖が抜けない夢を見てうなされるし、浪人服部が何故浪人になったのかという言い訳=説明がなされる。北野武には珍しく筋道を通した丁寧な作り方がしてある。これをもってして、何が真実かを判断せよということか・・・。本当の事を知るには、知る側にも覚悟と勇気が必要なんだな。
 ま、こんなに真剣に考えなくったって、「座頭市」だから充分エンターテイメントしてますがね。総ての場面に、ボケけとツッコミが用意されていて面白いのなんの!残虐な場面とお笑いの場面が、素早く交互に来るのである。単に面白いだけでなく、スピーディーさが加わる。その上更に、リズム感が良いときてる。お百姓さんが農作業するにも、時代劇定番の終演場面である盆踊りもタップダンス。これは関連性もなにも、意味がないようですっごく大切!これこれ、この感覚が北野武の天才的なところなのよ。時代劇とタップダンス。時代劇のエンターテイメントぴか一の「座頭市」、今やアメリカ本国だけでなく日本でも大流行りの「タップ」。普通の感覚じゃ組み合わせませんでしょ?それから、上映前から話題になってた、たけし=市は金髪で青い目も、全然違和感無し。金髪は映画の中では透明感を持って坊主に見えるし、青い目は盲目である事を強調している様に見えて、上手い小道具とさえなっている・・・本人いわく「バテレンの子どもかも」・・・なんだそうだ。それを用意周到に、この映画作りの話が来た時から金髪にして見る側の違和感を無くしておこうと言うのだから、この人、とても用意周到、つまり決して勢いだけで事を成している人間ではないって事なり。北野武が好きでも嫌いでも、見ごたえある映画です。
 さあさあ、まだの方、見てらっしゃい、行ってらっしゃい〜〜〜

2003年11月

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