Chissarossa の I LOVE CINEMA 4
う〜〜ん、とっても好きだわ!この手の映画。こういう映画が好みだって事で、自分が殊更、女らしいって自覚出来てしまうのは嬉しい事なのやら、悲しい事なのやら?
物語は1900年代初頭のイギリス文学を代表するヴァージニア・ウルフが「ダロウェイ夫人」を執筆する進行過程とともにヴァージニアその人を描き、・・・【此処を間違っちゃいけない、説明を単純化しちゃいけない、正確に!】・・・【「ダロウェイ夫人」という物語の主人公であるダロウェイ夫人が感じる“生きるということ”】を、1900年半ば(ミセス・ブラウン)と1900年末(クラリッサ・ヴォーン)という違う時間設定で、ダロウェイ夫人に何らかの影響を受けた女性が“生きるということ”を日常のたった一日で、ダロウェイ夫人さながらに鮮明にしていく・・・というもの。つまり、三人のダロウェイ夫人が1900年という時代=時間を表していることになる。それで、『めぐりあう時間たち』という邦題になるわけ。
第一ダロウェイ夫人=ヴァージニア・ウルフ=二コール・キッドマン・・・モダニズムの旗手、時代を先取りする作家は狂気と時間を争って日常の生活の中から普通でない普通の心を描こうとしている、何度も繰り返されたであろう自殺、「狂気の中に落ちると解っていても、私は今生きていたいのよ!」と叫ぶヴァージニア、彼女の才能を愛してしまった夫のレナードのひたむきな献身、にもかかわらず、映画の冒頭シーンはヴァージニアが川に入っていくシーン、物語の途中では効果的にも、川の底に沈むヴァージニアの体、流れていくヴァージニアのカット・・・ヴァージニア演じるニコール・キッドマンはヴァージニアその人に見えてしまうほど渾身の演技、それが、例え特殊メークのおかげであったとしても、似ても似つかぬニコールがヴァージニアに見えてしまうのを保証しちゃう。
第二ダロウェイ夫人=ミセス・ブラウン=ジュリアン・ムーア・・・物語のダロウェイ夫人の影響を多大に受け、自分がまがい物の世界に生きている事を気づいてしまう。何度も何度も、子どものために、ローラ命でベトナムから帰還してきた夫のために、まがい物の世界で皆の希望に添ったミセス・ブラウンを演じつづけようと努力するのにもかかわらず・・・母が違う世界に行ってしまう事を常に恐れている3歳のリッチー少年の瞳が悲しい。
第三ダロウェイ夫人=クラリッサ・ヴォーン=メリル・ストリ−プ・・・50を過ぎてもまだまだいけてるかな?もうだめかしら?編集者としてのそこそこの名声と充分の収入、人工授精でも自分で持とうと決めて生んだ娘、実に巧く長年一緒に暮らしてるパートナーのサリー・・・一般世間から羨まれるには充分のステータス。元恋人リチャードがサラザール賞を取ったお祝いにパーティーを開くの「お花は私が買ってくるわ」・・・リチャードがダロウェイ夫人を呼び名に決めた。彼はもうすぐエイズで死ぬだろう、だから、少しでも長生きさせなくては・・・このリチャード=エド・ハリスが、実は第二ダロウェイ夫人の“捨てられた子どもリッチー”。それは、エイズでもはや狂気の世界の住人となりつつあり(ヴァージニアと同じ!)椅子にうずくまっている彼の部屋着を観て初めて解る・・・そう、このシーンで初めて3人のダロウェイ夫人が繋がるのね、もう此処までは、それそのお話があっちへ行ったりこっちへ行ったりで、まるで3D画面・・・じゃなかった3D構造物語、しっかと見てないとわけがわからなくなることも多いでしょう、だから、当然誰にでも気に入られる映画だとは言いがたいけれど、ああ、ため息がでる。
物語の最後を飾るは、年老いたミセス・ブラウン。リチャードはクラリッサの目の前で、窓から飛び降りちゃった・・・「もう死なせてくれ」って。知らせを聞いて元ミセス・ブラウンはやってくる。そこで言うの「私は、自分が生きるために子どもを捨てたんです。後悔してどうなるの?後悔したって許されないことだわ」って。はぁぁ〜強烈!!自分らしく自分の人生“生きる”って言うなら、ここまでしっかと覚悟しなくっちゃねぇ!
2003年7月