VIC FAN CLUB
VIC FAN CLUB: CHICAGO

梅村 浄
Kiyora Umemura

 二度目のシカゴには、カレンダーはそのままの日曜日の午後に着いた。九月の中旬で、蒸し暑さは日本と変わらない。ホテルにチエックインして、私たちは女三人用に割り当てられた部屋に入った。もともとツインの部屋に三人が泊まるので、黒人の客室係がもう一つ、簡易ベッドを運んで来て、かろうじて窓際に押し込んでくれた。
 日本から来た一行は、弁護士、大学の研究者、福祉施設職員、知的障害者の親、医師等、総勢三十一人。これから一週間、ホテルから歩いて十分のところにあるイリノイ大学の校舎で、知的障害者の権利擁護について、イリノイ州の弁護士、警察官、検察官、大学研究者、権利運動家から講義を受けることになっている。
 コーディネーターの八田さんはホテルのロビーで待っていた。半ズボンとシャツにスニーカーとラフな格好だ。私たちを彼の研究室のあるイリノイ大学の講義室まで案内してくれるという。シカゴの市街はドーナツ化現象を起していて、金持ちは郊外に引っ越して、ダウンタウンの中心街には人が住まなくなっていること。中心部の周辺にある地域には貧しい人々が住む地域があり、イリノイ大学の南側はその地域に当っている。冬休み明けに自分の研究室に戻って来たら、風がスースー通り抜けていた。窓を閉め忘れたかと思ってよく見たら、ガラスに銃弾の穴が空いていたと、私たちを脅かして、ルーズベルト通りの南側には決して行かないように、くれぐれも、夜の一人歩きはしないようにと注意をしてくれた。

 夕食を食べてホテルに帰ったのが十時過ぎ。それぞれのベッドを決めて、寝る用意をしていると、かかってきた電話を同室の堀さんが私に取次いでくれた。彼女は関西で弁護士事務所を開業したての、若手弁護士である。電話は日本からで、診療所で仕事をしている聴能言語士の森岡さんだった。
「心配しないでいい状態になったんだけど」
 そこまで聞いた途端に、ドキンと心臓が打った。いい結果にたどりつけるまでちゃんと聞くんだよと、自分に言い聞かせながら、私は受話器をしっかり持った。
 「涼ちゃんが日曜日の午後に澁谷で、買い物に入ったお店の前で倒れてね、後頭部を打って、武蔵野日赤病院に入院したんです。硬膜下血腫になったんだけど、二回目のCTでは、血腫は大きくなっていないから、手術はしなくていいようですって。お父さんの診療所に、二時間後に電話して下さい」
 同室の二人は、気持ちよく寝息をたて始め、私ひとりが簡易ベッドで眠れない夜に入っていった。
 涼は二十七才になったばかり。九月末には、世田谷区に引っ越して、一人暮らしをすると張り切っていた。左半身麻痺とてんかん、それに知的障害をもっているので、一人暮らしといっても、介護者と一緒のアパート生活だけれど。出発前に新宿で別れた時は、大きな赤いリュックを背負って、元気に「さようなら」を言っていたのに。
 ホテルのオペレーターに、どうしたら外線につながるのかを尋ねてから、電話をプッシュすると、だいぶ間をおいて、コール音が聞こえだし、診療所につながった。右側頭部に出血しているが、手術は免れたという。
 「帰国しようと思ったんだけど」
 「今日はなぎがHCUの個室で付添って、よくやってくれていたよ。明日も仕事が休みだから付いてくれるって。強い頭痛や吐き気もないから」
 迷っていた私は、帰国は思いとどまり、一週間の講義を聞きつづけることに決めた。

 月曜日、第一回目の講義をしたナンシーはイリノイ大の研究者で、白人。明るいブラウンの頭髪をボブにカットして、白地に青い花柄の長めのワンピ−スを着、青いカーディガンを羽織っている。州内の三ケ所の地域で、警察官、検察官、内務監察局員、公衆衛生局員、知的障害者本人、家族、専門家からなる委員会を作り、犯罪の場に立たされた知的障害者の理解を深めるための研究活動を三年間、行ってきたという。てきぱきと話しはすすみ、それを八田さんがわかりやすい日本語で通訳してくれる。法律の専門用語がどんどん出てくるので日本語さえも難しい。
 次の時間はスーザン。社会福祉法人であるレイ・グラハム福祉協会の顧問弁護士をしている彼女は、五十代で、カーリーヘア−に花模様を散らしたロングドレスをさりげなく着こなして現われ、イリノイ州における法定後見制度について話してくれた。今回、講義をしてくれた講師は、十数人だったが、二人の男性を除いてすべて、白人女性。おじさん優位社会の日本よりも自由な風が吹いているんだ。とも思ったが、彼女たちは、絶えまなく闘い続けてこの地位を確保してきているんだろうなと、その苦労もしのばれるのだった。
 サラ・パレツキーの「ガーディアンエンジェル」では、主人公の女探偵、ヴィクの近所に住む老女の後見人を巡って、ヴィクと同じアパートに住む弁護士夫妻とのやりとりがでてくる。老齢や障害のため、自分の身の回りのことが決められない人の家族や親しい人が、裁判所に申し出て、「後見人」(ガーディアン)となる。本人に代わって、どこに住むのか、財産をどう使うのか等を決めることになる。スーザンは、本人を一番よく知っている人がなるべきだと言い、レイ・グラハムの施設に入所している障害者の場合は、親が後見人になっているケースが最も多いと語った。
 涼の場合には自立生活をするにあたって、誰がどんな風に責任をとるのかつき詰めて考えてはいなかった。ふつうのこどもが大人になって家をでるように、涼の希望に添って、私たち両親はすんなりと動いてきた。もちろん、彼女は一人で暮らすわけではなく、介護者にできないことを手伝ってもらいながら、生活する予定。ちょっとした段差があっても転びやすいので、引っ越す前に、介護者とも打ち合わせて、安全を守る手だてを講じておくことも必要だ。事故と入院が、研修に重なったのは、私たちの呑気さに対する警告かもしれない。

エルムハースト見学

 水曜日はレイ・グラハム福祉協会がエルムハ−ストに持っているクループホームの見学に行った。顧問弁護士のスーザンが案内役を務めてくれた。彼女はエルムハ−ストに住んでいる。シカゴから車で四十五分もかかる郊外にあり、シカゴ市長をはじめとする金持ちの住む高級住宅地だ。街路樹の植えられた広い道路をはさんで、芝生の庭を巡らせた大きな家が並んでいる。ダウンタウンの辺りとは全く違う街の造りだ。
 最初に訪問したグループホームは丈の高い木々に囲まれ、住宅街の中にある、二階建てのアパートだった。四所帯が入れる構造になっていて、一所帯は介護者が住み、24時間一緒に住んで、必要な援助をしている。一所帯に二人の知的障害の女性が住んでいる。全員、午前中はスーパーや作業所で仕事をしているので、主の居ない部屋を見学させてもらった。
 かわいいカーテン、カラフルな模様のベッドカバーの上には布製の人形も飾られていた。カバンや靴なども雑然と置いてある室内は、若い女性が住んでいることが想像できるものだった。共通のキッチンはピカピカに磨かれていたけれど、冷蔵庫をそっと開けてみたら、ジュース以外のものは入ってなかった。ほんとに料理をしているのかな。二人用の居間には、ガレージセールで買ってきたというソファーセットとテレビ。地下室は洗濯機と乾燥機が並んでいるだけで、がらんとしていた。
 介護の仕事をしている若いメアリは、職員は臨時雇いが多く、給料はマクドナルドでもらうより安いので、離職する子も多いという厳しい現実を聞かせてくれた。
 何人かの講師から、知的障害者に対する虐待の講義があった。知的障害者の7割が、家庭内では家族から、知的障害者の施設では介護者から殴られたり、性的な虐待をされているという統計データがあった。スーザンのいる福祉法人の施設では職員に虐待をさせないためのトレーニングがあるが、年間、虐待で処分される職員が後をたたないという。イリノイ州の内務監察局は、州立の知的障害者施設でおこった虐待の調査と処罰を行っている。これは行政処分であるが、犯罪として検察局がからんで検挙する重大な事例も勿論ある。イリノイ大のロンダは、性的虐待を受けた知的障害女性(言葉を話すことができる人に限る)は、正確に事実を報告できるという研究結果を報告してくれた。

 

ネービーピア

 金曜日の夜は、VFCの会員でシカゴ在住の中野和子さんに会った。まず、シカゴ川クルーズ。船でミシガン湖から夕暮れから夜に移り変わる摩天楼やネービー・ピアを望み、その後、シカゴ川に沿って建っている、リグレービル、シカゴ・サン・タイムズ、オペラ・ハウス等を見る。中野さんの説明で、リグレービルが「ER」の背景に度々、でてくることを知った。そう言えば、イリノイ大学病院の周辺では病院遠景の撮影をしているという噂を、初日にメンバーの誰かから聞いた。
 髪を染めて皮ジャンをはおった中野さんは、すっかりシカゴアンが板についているように見えた。でも、彼女が住んでいる地区は日本人ばかりで、チャンスを探して出て行かなければ、英語を話さなくても過ごせるとのこと。中野さんは、最近、養護学校にボランティアで行き、脳性麻痺の男の子に給食を食べさせてきたところで、その経験について話してくれた。

ハウスオブブルースにて

 週の後半から、気温は下がりだし、多分、この夜は10度をきっていたのではないかと思われる「寒さ」だった。船を降りてから、寒さでカチンカチンの身体のまま、「ハウス・オブ・ブルース」へ急ぐ。ここは、シカゴのブルース・スポットの一つで、ダウンタウンのまん中にある。よかった。中は暖かい。ホールにある売店では、CDやロゴ入りのシャツ、ロウソク等を売っている。壁にはブルースマンやブルースウーマンのレリーフがはめ込まれている。B・B・キングやビリ−・ホリディに混じってエリック・クラプトンの顔があった。
 ピザとジャンバラヤ、なまずのフライとサラダにバーボンの水割り。メキシコ・ビールにはライムを瓶の中に絞り入れて飲むのだった。私はジャンバラヤの上にのっていた赤いピーマンを食べたらこれが辛くて、辛くて。口中がひりひり、ビールを何回も飲むが、なかなかおさまらない。
 食べ終わった頃、ようやく音楽が始まった。ギターとドラム、ベースに歌。合わせて踊る人々。酔いがまわった眼で天井を見たら、ここにもたくさんの顔、顔、顔。中の一つにジャニス・ジョプリンのレリーフがあった。27才でヘロイン中毒で亡くなったジャニスが、その時にフルティルト・ブギ・バンドのメンバーと共に製作していたアルバム「パール」とその中の「ミ−アンドボビーマギー」は全米ヒット・チャートの一位になった。
 Freedom's just another word for nothing left to lose.
 (自由ってことは 失うものが何もないってこと)
 このフレーズは私の中に響き続けている。亡くなったジャニスと同い年になった涼は、病院のベッドの中。命のはかなさが渦巻き、クールとホットが入り交じった夜だった。タクシーで最寄りの駅まで中野さんを送って、私はホテルに帰った。

 翌日は土曜日、私は一行より一足先に、日本に戻った。病院にかけつけた私に、涼の一言。
 「お母さん、やっと来たね」

 

2000年10月