(1)はじめに
医学・医療技術の進歩に伴い、出生前診断技術が向上しており、一部の疾患については、胎児の状況を早期に診断し、早期に治療を行うことも可能になってきた。しかし、一方では、この技術は障害児の出生を排除し、障害者の生きる権利を否定することにつながるとの指摘もあり、近年、出生前診断に対する国民の関心が高まっている。こうした中で、諸外国や我が国の関係学会においても出生前診断に関するガイドラインを作成する方向にある。
しかしながら、出生前診断は医療の問題のみならず、倫理的、社会的な問題も含んでいることから、ガイドラインの作成に当たっては、医学のみならず、広く他分野の関係者の意見を聞くことが求められている。
厚生科学審議会先端医療技術評価部会の中で出生前診断に関する諸問題が検討されることとなり、約1年の間に医療関係団体、法曹関係団体、障害者団体、女性団体等から意見が聴取された。これら問題の論点は多岐にわたることから、同部会の下に、医学、看護学、遺伝学、法学、倫理学の専門家からなる専門委員会が設置され、それぞれの専門的立場から検討を集中的に行ってきた。今般、母体血清マーカー検査に関する見解をとりまとめたので報告する。
(2)検討の趣旨
出生前診断は、胎児が出生する前に胎児及び母体の状況を把握するために行われる。
現在実施されている診断技術には、羊水検査、絨毛検査、超音波検査、母体血清マーカー検査等がある。それらの中で、最近導入された母体血清マーカー検査は、妊婦から少量の血液を採取し、血中のα-フェトプロテイン、hCG(free-β hCG)、エストリオール(uE3)などの物質が、胎児が21トリソミー(ダウン症候群)等であった場合にそれぞれが増減することを利用して、胎児に21トリソミー等の疾患のある確率を算出する方法であり、その簡便さから、今後広く普及するおそれがある。
しかし、この検査に関する事前の説明が不十分であることから妊婦に誤解や不安を与えていること等が指摘されており、厚生科学審議会先端医療技術評価部会での検討においても早急な対応が必要とされている。このため、本専門委員会では、まず、母体血清マーカー検査に関する見解をとりまとめることとしたものである。
(3)母体血清マーカー検査の問題点と対応の基本的考え方
1 問題点
〈1〉胎児の疾患の発見を目的としたマススクリーニング検査として行われるおそれがあること
母体血清マーカー検査は、母体から少量の血液を採取して行われる簡便さから、妊婦にも受け入れられ易い。その結果、不特定多数の妊婦を対象に胎児の疾患の発見を目的としたマススクリーニング(ふるい分け)検査として行われる危険性がある。
しかしながら、胎児の疾患が発見されても母体保護法上は胎児の疾患や障害を理由として人工妊娠中絶をすることは許されていない。また、現在、我が国においても、また国際的にも、障害者が障害のない者と同様に生活し、活動する社会を目指すノーマライゼーションの理念は広く合意されている。胎児であっても障害を有する者もそうでない者も同様に命が尊重されるべきことは自明であり、この技術は胎児の疾患を発見し、排除することを目的として行われるべきではない。
〈2〉妊婦が検査の内容や結果について十分な認識を持たずに検査が行われる傾向があること
母体血清マーカー検査は、現状では検査前に、文書もしくは口頭またはその両方で説明を受けているが、その説明が不十分であることから、妊婦がその検査の内容及び検査結果等について十分な認識を持たずに検査を受ける傾向にある。その結果、胎児の疾患の可能性が確率として示された場合、動揺・混乱し、その後の判断を誤らせたり、精神的な不安から母体の健康に悪影響が出ることが問題点として指摘されている。
〈3〉確率で示された検査結果に対し妊婦が誤解や不安を感じること
母体血清マーカー検査は、胎児が21トリソミー等である可能性を単に確率で示すものに過ぎず、確定診断を希望する場合には、別途羊水検査を行うことが必要となる。また、確率が相対的に低いとされた場合にも胎児が疾患を有する可能性がある。この検査の特質の十分な説明と理解がないままに検査を受けた場合、妊婦が検査結果の解釈を巡り誤解や不安を生じる場合があることが指摘されている。
2. 対応の基本的考え方
以上の本検査に関する特質や問題点を踏まえると、この検査は、医師が妊婦に対してその存在を積極的に知らせる必要はなく、検査を受けることを勧めるべきでもない。また、医師や企業等はこの検査を勧める文書などを作成または配布すべきではない。妊婦が胎児を対象とする検査を希望する場合には、妊娠前または妊娠の極めて初期に遺伝相談を行い、その結果、遺伝相談とこの検査についての十分な理解を前提として、妊婦から希望があった場合に限って実施されるべきである。この場合においても、検査内容や予想される検査結果等についての説明と理解を得ることは検査前に十分に行われる必要があり、検査結果の解釈についても十分に説明し理解を得る必要がある。また、検査結果についての説明も遺伝相談とともに行われるべきである。さらに、妊婦は胎児が疾患を有する確率が通常より高いとされた場合には大変な混乱と不安を抱くおそれがあることから、医師は検査前に検査対象となる疾患を有して出生した子供に対する医療の現状や社会的支援等について十分な情報を妊婦等に提供するとともに、確定診断によって胎児に疾患があることが判明した場合には、遺伝相談を十分に行うなどの支援を行うべきである。
(4)母体血清マーカー検査の実施に当たり配慮すべきこと
以上を踏まえ、母体血清マーカー検査が実施される場合には、少なくとも次のことに配慮し、慎重に行うべきである。
【検査前】
1 妊婦及びその配偶者に対して母体血清マーカー検査について知らせたり、検査を受けるように勧めるべきではない。また、勧める文書などを作成または配布すべきではない。
2 母体血清マーカー検査を実施する医師は、この検査を希望する妊婦及びその配偶者に対し、必ず次のことを前もって説明すべきである。説明は個別に口頭で説明するとともに文書で補足し、その際、平易な言葉を用い、質問には納得いくまで応え、思いやりのある態度で接するとともに、秘密保持に留意すべきである。
〈1〉生まれてくる子どもは常に先天異常などの障害をもつ可能性があり、また、障害をもって生まれた場合でも様々な成長発達をする可能性があることについての説明。
1) 障害をもつ可能性は様々であり、生まれる前に原因のあった(先天的な)ものだけでなく、後天的な障害の可能性を忘れてはならないこと。
2) 障害のある人たちやその家族は、障害のない人たちが楽しく暮らしている場合と同様に、あるいはそれ以上に楽しく暮らしている場合があること。
3) 障害はその子どもの一側面でしかなく、障害という側面だけから子どもをみることは誤りであること。
〈2〉検査の対象となる疾患(主に21トリソミー)に関する最新の情報に基づいた正確な説明(症状の説明以外に次のことを含む)。
1) これらの疾患はその子どもの一側面でしかなく、疾患の側面だけから子どもをみることは誤りであること。
2) これらの疾患をもって出生した子どもに対する最新の医療の現状。
3) 出生後の児の経過が一様ではなく、個人差が大きいことから、出生後の生活は様々であること。
4) これらの疾患や合併症の治療の可能性及び支援的なケアについての情報。
〈3〉検査の目的・方法・原理・結果の理解の仕方等についての説明。
1) 検査結果は、母体血液中のα-フェトプロテイン、hCG、エストリオールなどの物質が、胎児が21トリソミー等であった場合に増減することを利用して確率計算して得られた数値に、年齢固有の確率をさらにかけて算出されること。
2) 検査結果は、21トリソミー以外の疾患や母体の合併症、個体差等によっても影 響を受ける可能性があること。
3) 母体が高年齢になると、年齢固有の確率のウエイトが大きくなるため、自ずと確 率が高くなること。
4) 染色体異常の子どもを出産した既往のある場合や、夫婦のいずれかが染色体異常の保因者である場合は、すでに遺伝的リスクが高いため、本検査の対象とはならないこと。
5) 検査結果が出た場合には、すみやかにそれを伝えること。
6) 再検査は意味がないとされていること。
〈4〉胎児が当該疾患である可能性(母体の年齢固有の確率と検査結果の確率)についての説明。
1) 確率は、理解されやすいように説明する必要があり、例えば、その疾患である確率は300人のうち1人とか、0.3%であるとか、逆の言い方で300人中299人は違うとか、99.7%は違うというように様々な言い方で伝える。
なお、確率を説明する際、危険率という語はその胎児が危険であるとの誤解を防ぐためにも使用しないようにする。
2) 陰性/陽性、またはリスクが高い/低い、と言う表現は誤解や不安を生じやすいので用いない。
〈5〉予想される結果とその後の選択枝についての説明。
1) 正確な情報を得るためには確定診断(羊水検査)が必要であること。ただし、羊水検査によって1/300の確率で流産が起こる可能性があること。
2) 検査の結果が胎児の治療にはつながらないこと。
3) 胎児の障害があったとしても母体保護法上、胎児の障害を理由に人工妊娠中絶手術を行うことはできないこと。
4) 検査の結果、確率が低く出ても胎児が21トリソミー等ではないと保証できるものではなく、また、それら以外の疾患をもっている可能性もあること。
3 母体血清マーカー検査を実施する医師は以上の事項について、十分説明した上で妊婦及びその配偶者から文書による同意を得るとともに、診療録にその旨を記載し、文書を保存すべきである。
4 母体血清マーカー検査を実施する医師は、対象となる疾患を専門とする医師と連携し、必要な情報を収集するとともに、必要な場合にはその専門の医師に速やかに紹介できる体制を築いておくべきである。
5 母体血清マーカー検査を実施する医師は、妊婦及びその配偶者が十分な説明を受けた後も判断に迷う場合や、その他、遺伝相談が必要と考えられる場合に、カウンセリングが実施できる施設に速やかに紹介できる体制を築いておくべきである。
6 検査の説明文書や同意書は、母体血清マーカー検査を実施する医師が自ら適切なものを用意すべきである。
7 母体血清マーカー検査を行う検査会社は、この検査業務で得られる個人情報等についての秘密保持を徹底する必要がある。
8 母体血清マーカー検査を行う検査会社は、検査結果の算出方法やそのもととなるデータ等について、検査を実施する医師に説明する必要がある。
【検査後】
検査を実施する医師は、検査後に次のことを行うべきである。
1 検査結果について、妊婦及びその配偶者に分かりやすく説明すべきである。その方法は、【検査前】の2の〈4〉のとおり行うこととし、電話や手紙、FAX、電子メールなどによって結果報告を行うべきではない。
2 妊婦及びその配偶者が、検査結果の解釈やその後の方針決定に際しては、検査前に行った説明の各項目が理解されているかどうかを確認した上で、十分な理解が得られていない点や不明の点についてさらに説明すべきである。
3 十分な説明に対し十分な理解が得られた後の方針決定に際しては、妊婦及びその配偶者の自己決定を尊重することとし、羊水検査を勧奨するべきではない。
4 検査を実施する医師等の関係者は、検査結果のみならず、すべての個人情報について秘密保持を徹底する必要がある。
5 検査結果によっては衝撃を受けたり、大きな不安が生じる場合があるため、妊婦及びその配偶者(必要に応じてその他の家族)に対する十分な心理的ケアと支援を行うべきである。
6 母体血清マーカー検査に関する心理的、社会的諸問題の解決が容易でない場合に備え、いつでも専門的なカウンセリングが受けられるよう、日頃からそれらの専門機関との連携体制を構築すべきである。
7 当該疾患に関する相談が受けられる機関(医療機関、保健所、福祉事務所等)や本人・親の会、支援グループの情報を提供すべきである。
(5)行政・関係団体等の対応
母体血清マーカー検査はもとより出生前診断を実施する際には、妊婦等に対し事前の十分な説明と検査結果についての分かりやすい説明が不可欠である。
また、検査を実施する医師のみでは被検査者の心理的、社会的問題の解決が容易でない場合に備え、日頃から、専門的な遺伝相談を実施できる機関との連携体制が必要であるが、現時点では、このような専門的な機関の数が限られていることから今後、このような専門家が育成され、専門機関が増えていくことが強く望まれる。
さらに、これらの専門機関が活用されるよう、専門的なカウンセリングを実施する機関の登録システムを構築し、その情報を医療機関に提供することはもとより、広く一般に提供する必要がある。
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